椿屋敷のお客様

« ヤギ用ペレット再び | メイン | ヒマラヤのピンクソルト »

2006年2月20日 (月)

オオバコ

Nec_0038_9 オオバコです。

舗装してない道路ならどこにでも生えているおなじみの草です。全草を「車前草」、種子を「車前子」といい、咳止めや利尿剤に使います。葉ははれものの湿布に使うと。

この生薬名の「車前草」とか「車前子」とかいう名前を見るたびに、「ああ、この名は中国から来たんだなあ・・・」と思いますね。

日本の歴史では、平安時代の一時期だけ牛車を使っていましたが、それ以外に「馬車」とか「牛車」とか「下部に車軸と車輪をつけた箱を、人力以外の動力で動かす」車を「人間の移動に使う」という文化は発達しませんでした。せいぜい農作業用やごく一部の輸送用の車に使われた程度でしょう。今や「自動車王国日本」となってしまったのですがその歴史はたいへん短いのです。

比べて中国は、すでに殷・周時代には簡単な馬車が存在し、司馬遷の「史記」など読むと、戦国時代にはあらゆる思想家だの食客だのが、馬車に乗って広大な中国大陸を縦横無尽に駆け巡っています。ざっと考えても3000年前には馬車とそれが走るべき道路が、存在しておったわけです。日本はまだ縄文時代もいいところなのに。まあ、それでは「東倭(東の野蛮人)」とか言われても仕方なかったかもね。(その黄河文明がやりすぎて森という森を切り倒して荒れ果てた黄土高原にしてしまったのだから、どっちが良かったかはわからんのですが。)

とにかく「車」とうものにたいへん古くからなじんでいる文明でないと「車前草」とか「車前子」とかいう言葉はでてこないでしょう。この「車前」という言葉で連想するのは、史記の中でさんざんでてくる「車裂きの刑」。両手両足を縄でくくってそれぞれ4台の馬車か牛車に繋いで、罪人を4つに引き裂いてしまうというあれ。怖いよ――。日本人はその手の車を持たないので、その発想はでない。だからより恐ろしく感じてしまう。

もちろん「どちらが残忍な民族性か」などというくだらないことをいうわけではなく、「言葉」とか「文化」とかはベースとなる社会の持つ技術(文明ってやつかい)に大きく影響されるものなのだなあ。といいたいわけであります。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.synapse-blog.jp/t/trackback/190372/6095811

オオバコを参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿