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2006年3月21日 (火)

春の彼岸

Nec_0016_8 今日は春の彼岸のお中日です。早いものです。

墓参りに行く途中で、ラジオにDr.コパが出ていました。「春の彼岸の中日に、ついているかついていないかでその年の運気がわかる」のだそうです。

おかげさまで今年はいい年のようです。日置の実家のお仏壇にもお花をあげて、ご先祖さまに感謝を・・・・・って、これは本来の仏教に全くない発想なんだけれどね。(仏教は『一切が空』が基本だから、ご先祖も子孫もクソもない。そういう『愛』という名の執着をこそ、止めろという教え)。

日本古来の祖霊崇拝と、儒教や道教の礼と、念仏仏教が江戸時代に微妙~なサジ加減でミックスされたのが現在の葬式仏教。だからって「なにもかもちゃんぽんにしおって、けしからん!節操のかけらもない!」などと堅苦しいことをいわないところがヤマトゴコロのいいところ。いいじゃん。それやって気が休まるなら。高度成長期育ちのわたくしでも、盆とか彼岸とかお命日とかに墓参りしとかないと、何かあったときに「あああ、あんとき墓参りしとかなかったから!!バチが。」とかついうっかり思っちゃうんだよね。どんな形であれ、様式や美学があることはいいことだなあと最近とみに思うのでありましたよ。

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コメント

こんにちは。

般若心経の中にある、
「色即是空・空即是色」
を思わせる内容ですね!

でも生きてる限り、信じる・想う・伝える...
というものは、自分自身の気持ちの
安堵感や実感や感謝に繋がりますよね。


その人に見える赤という色が実は、
日光のスペクトルの加減によって目に映り、
微弱電流に置き換えられ脳に送られシナプスを介し、
経験上で過去に見た赤色と結び付けられる。

しかしそこにある赤色は、光源による誤差
個体で認識する赤色への誤差等もある限り、
皆が共通するに値する不変の赤色にはならない。


...(汗)
確かにそうなのかもしれないですが人間には心がある限り、
その赤色から情熱や暖かさをイメージしたりしますよね。
人それぞれに赤色を見た後の感じ方も違う。

教えというものは、寛大であって決まりもない?世界だから、
逆もまた然りというものなのかもしれませんね!(^^)

ではでは。

>逆もまた然り

逆もまた真なり

訂正です。(汗)

おおおおお、404さん、ご無沙汰してすみません。・・・っとお、さすが404さん、すごく哲学的なコメントありがとうございます。「個別に見える赤」でも「心がイメージする赤」で、安堵感や実感や感謝を覚えるのが人間――――ううううむ、深いっす。「逆もまた真なり」といっていただけると、文字通り安堵いたしますですよ。ありがとうございました。

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