家の南東の庭に築山があり、そこにクロガネモチとヤマモモと楠が生えていて、この三本が屋根をはるかに越えて大きくなってしまいました。昼なお暗い日陰になっていたのです。
どうにも陰気になってしまうので、元植木屋の父に剪定してもらいました。高さが6m近くなるので高所恐怖症のわたくしには無理なのです。せめてはしごが届くぐらいまで一度切ってもらおうと。
ちょっと大きな木なので、最初にお酒とお米とお塩をお供えして拝礼。事故がないようにね。それから電動チェンソーを持ってはしごを上って一本一本枝を落としていきます。
とりあえずクロガネモチが半分の高さになったのですが、いやあ、すごいわ。「どごーん!どごーん!!」と大枝が音を立てて落ちてきて、そのたびごとに空が開け、明るくなっていきます。もう東南の部屋の明るさが全然違いますわ。すばらしい。
来年からはわたくしが毎年手入れしなければなのです。
モモの散歩コースの途中に、枝垂れ梅が何本か植えてある畑があります。
たぶん植木屋の畑だと思うのですが、移植されるわけでもなく(売り物の植木は根を作るために移植しなければならない)、もう10年ぐらいはそのまま。ただただ今ぐらいの時期になると枝垂れた枝から赤い梅の花が咲くのです。
1980~1990年代にかけて「都市緑化」という言葉が流行りました。「都市を緑化する」ってすばらしいエコロジー・・・・・・・・と思うでしょ?これがとんでもないお役所的公共事業工事だったのですわ。
たとえばこの枝垂れ梅。こんな枝垂れ梅みたいな風情のある木でもね、公共事業に納めるときには「幹周り10cm、高さ150cm、はばり100cm」とかいう指定のサイズにぴったりであることが第一条件だったんだよ!サイズだよ!サイズ!!どんなに枝具合がよくても、サイズが1cmでも合わなかったらそれは規格外だったの。はねられるの。
木の話だよ。工業製品じゃないんだよ!でも相手は役所だからね。
役所の検査はすべてサイズ。それも「納品時の」サイズ。木が大きくなることなんかこれっぽちも考えてないの。何年かして木が大きくなってきたら「引っこ抜いて他の木を植える」のが役所の常識。
ほんとーーーーーにとんでもなかったよ。忘れられないのは「都市緑化」とやらの役所の担当者が「ある河川敷を自然景観に近い緑化公園にする」と、そこの河川敷に自然に生えていた木や葦なんかを全部ブルドーザーで根こそぎ引っこ抜いといて、川原を他所から持ってきた瓦礫や砂で埋め立てて、他所の山から堀採って来た木ばかりを移植しといて、「とても素晴らしくなりました!」と言い放ちやがったこと。
悪意がなかったことはわかる。むしろ心よりの善意と使命感でその人はいっぱいだったでしょうよ。当時の「公共事業工事」の常識なんてまさにそれだったし。
その善意と使命感の何十年かで日本中の山と川と海はむちゃくちゃになってしまった。
役所に余計な金が無くなって公共事業工事がほとんどなくなってしまったことは、結果的にはとても良かった。経済的にも環境的にも。
その工事のために育てられながら、忘れられた枝垂れ梅が人知れず咲かせている赤い花は、とても美しい。それで良いんじゃないでしょうかね?
「蔦のからまーるチャペールに♪いのりーを奉げた日ー♪」とか歌にもありますが、建物にも木にも蔦が絡まっていいことないです。
蔦が何もないところをどこまでも這い上がっていくことができるのは、根をハーケンのように相手に打ち込んでいくからです。この根が曲者なんだな。
割れ目には確実に忍び寄るし、割れてなくても実に巧妙に張り付き、ちょっとした窪みを幸い、そこから徐々に年月をかけて内部に侵入していく・・・・・・・・。
そして最初はこんなふうに細い蔓から始まっても、十年二十年とたつうちに幹が肥え太り、蛇のようにのたうちながら寄生する相手をがんじがらめに絡めとり、ついには相手を枯らしてしまって蔦の塊になってしまうという。
なんというか「柔らかいけれど逃れようがなく、じわじわと確実な悪意」みたいな怖さがあるんだな、蔦には。
おお~~~!くわばらくわばら。
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