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長く暑い夏の間、彼とわたくしの仲は冷え冷えとしたものでした。
坊ちゃん育ちの彼は、わがままで自分の欲望が最優先です。「ご飯用意してよ、ご飯」「アジは当然ぼくのだよね。誰より先に食べる権利があるのさ。(誰が決めた?)」「それ生クリームでしょ、気が利かないなあ、舐めるって言ってるでしょ。」「暑いのにさわらないでよ!臭いがつくじゃない。」―――もう、さんざんやりたい放題の癖に、氷のように冷たい態度。最初はひそかに涙にましたが、よくよく思えば毛だらけの彼にべったり張り付かれるより、クールな距離があったほうが過酷な暑さにふさわしいというものでした。
10月も半ばにはいった昨夜、山中の陋屋ではやっと秋らしい気温となりましたが、布団の中で久々の掛け布団にくるまって安眠をむさぼるわたくしの首筋に、何者かが尖ったものを押し当ててきます。「すわ、何事?」と目覚めてみれば、彼(ドリアン・アメリカンショートヘアのハーフ・おじさん・12歳)が、前足を押し当てて爪を出したり引っ込めたりしております。たまったものではありません。彼一流の人間の起こし方で、実に労力の要らぬ効率のよい方法です。「布団に入れろちか?」一夜にしてこの態度の豹変振り、腹立たしいにもほどがありますが、結局根負けして端を上げてやります。だいたいわたくしを起こさずとも、自力で潜り込めるはずなのです。ただ、自分が「愛されているかどうか」確認するためだけに、夜の夜中にわざわざ起こすのです。やれ口惜しや。根負けして入れるだけならともかくも要求されるままに腕枕までしてやる我が身が情けない。おかげで朝は肩こりです。なにが口惜しいとて、ここまでわがままな彼を心より愛していることが一番口惜しい。
こうやってキーボードを打つ間も、膝の上に勝手に乗り人をアンカ代りにしております。重たいんだってば。
葛やクローバーなんかもそうなんですが、マメ科の植物は根が地中の窒素を蓄えるために、たいそう栄養があります。(『空中窒素固定装置』なみ。「キューティーハニー」かよマメ科)。
よって野生の草でも、家畜や 家禽のいい餌になるので、昔から冬に備えて刈って干して蓄えていたようです。小さい頃斜め前のお宅が牛と馬を飼ってらして、そこのおじいさんが葛やクローバーの茎や葉を大量に刈って馬車(!)で馬小屋に運び込んでました。
それに比べればささやかですが、うちの藪に自生しているヤブマメを(藪払いも兼ねて)除草して、そのまま地鶏くんたちにあげると大喜びです。この小さなえんどう豆みたいな豆を争って食べます。 試しに自分でも食べてみました。枝豆みたいでなかなかいけます。しかしこの大きさでは百粒でも一口に足りますまい。
今しがた鶏小屋掃除を終えて、堆肥になるべき鶏糞混じりの草をかき集めたところです。ほんとうに単純な作りですがこういう作業をするのにこれほど適した道具はないでしょう。
よく神社で竹でできた熊手が「福をかき集める」縁起物として売られていますが、まったく納得です。土とか砂利とか集めたくないものはその歯の間からこぼれ落ち、草だの落ち葉だの必要なもののみを掬い上げてくれます。便利。
「熊手を持った翁と箒を持った媼」の長生きを祝う「高砂」の意匠には欠かせないグッズです。とことんおめでたいシンボルグッズのようです。
実はこの熊手はちょっと優れものの熊手で、ネジ止めの金具を上下することで、櫛歯の間隔を調節することができます。ふふふふ(←自慢)。
イタリア語は「チャオ」しか知りませんがイタリア料理は大好きです。(といっても日本でしか食べたことはありません)
よって、バジルは畑の必需品です。
お客様のななさんのお宅でもバジルを栽培してらっしゃるし、べにこさんはガーリックオイルの作成に余念がありません。まっこち皆さんおいしいものを召し上がるための日々の精進ぶりさすがです。
バジルはまあいえば地中海沿岸に自生する野草なので、あまり水を遣り過ぎずに日向で育てれば、よく育ちます。今年もかなり繁ってくれたのでそろそろバジルソースの作成にかからねば、と思っています。
本場では松の実やクルミの実などを混ぜて濃厚なソースにするのですが、オリーブオイルとニンニクとバジルの葉っぱをフードプロセッサーにかけるだけの簡単ソースにしています。それだけでもパスタに混ぜればおいしいし、ピザにのせてもよし、あと鶏モモ肉にこれと塩コショウとまぶしておいて下味をつけ、パン粉や粉チーズとオリーブオイルを混ぜた衣をつけてオーブンで焼くと、簡単な割にはすごくおいしいです。
今年はちょっと奮発して松の実かクルミか混ぜてみようかな。来年のバジルの収穫期まで冷蔵庫で一年は持ちます。便利です。
ジュースは苦手なので(腹がたぷたぷになる、後口が悪い、太る)、麦茶は夏の必需品です。パック麦茶を使っていたのですが、明治生まれの御婦人に「使う分だけ煎りなおす」という技を伝授していただき、100¥ぐらいの一番安いバラ入り袋に変えました。フライパンやオーブントースターでちょっと煎ってから沸かすだけで、香ばしさが全然違います。
漢方ではお茶やコーヒー、それからほとんどの果物ジュースは「冷性」で体を冷やしてしまいますが、麦茶の原料の大麦は「温性」で冷えすぎることがありません。クーラーが苦手でうっかりしてると手足が氷のように冷えるので、麦茶は重宝します。
麦茶のだしがらはすべからく鶏小屋へ直行です。地鶏くんたちは争って食べます。うまいらしいです。
長かった今年の麦茶シーズンももう終わるでしょう。あと少しで麦茶が切れてしまうのですが、買い足すべきかどうか迷っているところです。
母方の祖父は、呆っけもんで変わり者で多趣味であった。趣味の一つが刀剣収集で、これは残されたうちの一本である。(ちゃんと美術品として許可をもらっているので銃刀法違反ではない)
といってもここにあるのは鞘だけで、刀身は別のところに保管している。なんといっても日本刀は錆びやすいのである。
祖父は気が付けばいつも、口に懐紙をくわえてポンポンで刀身に砥粉を振って手入れをしていた。美術品としての刀でもときには砥ぎにださないと、刃が曇って価値がなくなるらしかった。
時代考証に詳しい方ならご存知だろうが、刀で生身の人間の体を斬ったら、5人も斬れば刀身に血と油がまわり、皮も斬れなくなるらしい。あと、骨にあったったら刀身が曲がったりとか。時代劇で「正義の味方が次から次へと何十人も悪党を斬り捨てる」あれはまったくの嘘っぱちなのだ。それほど「人を殺傷する」ということはたいへんなことであり、「殺傷するための道具」を「いつでも殺傷できるように手入れしておく」ことには、莫大なコストと手間がかかるのだ。
古今東西を問わず「魔を払う神通力を持つ剣」のファンタジーがある。冗談じゃない。剣が魔を払うのじゃない。「殺傷できる能力を持つ剣」を鍛え上げるにも「その剣の能力をメンテナンスし続ける」にも、恐ろしいまでの集中力と精神力がいる。そういう精神には魔を寄せ付けるスキがない。それだけのことである。もっとも、そういう集中ができる偏執的な精神は別の意味で恐ろしいとも思うが。
ま、武器を「持つ」のは簡単だけど「持ち続ける」のはとんでもなくたいへんだよ――!ということ。維持できないんだったら最初から持たないほうがそりゃもう安全である。武器の大小を問わず。
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