椿屋敷のお客様

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2006年8月

2006年8月10日 (木)

のだめカンタービレ・15巻

Nec_0019_14高校のときの担任のI先生は、謹厳実直を絵に描いたような英語の先生でした。

その人がかなりのモーツァルト・マニア

モーツァルトの曲を1小節聴いただけでケッヘル№はすらすらでてくるし、英語の授業中もふとした拍子にモーツァルトを口ずさみ「いいよねえ♪いいよねえモーツァルト・・・」とつぶやいたり。

生意気盛りの高校生の頃、モーツァルトをいま一いま二も好きじゃありませんでした。ほら、十代ってなーんにも苦労した事ないくせに「人生とは・・・」「生きている意味って・・・」なーんて深刻ぶるのが好きなお年頃じゃないですか。モーツァルトみたいにどこに足がついているんだかわからない軽やかさは軽蔑の対象でした。いや、怖かったのかも。「こんないいかげんなやつに惚れたらダメ。惚れたらとことん振り回される。」やっとの思いでバランスをとってたあの頃。怖がってハリネズミのようになりながらちっぽけな自分を守ろうと必死。そんな人間にモーツァルトは鬼門でしょう。

あのクソまじめそうな先生の心のどこに、モーツァルトみたいな与太者の音楽が入る場所があったのか今となっては不思議に思います。あれから年月が流れて「モーツァルト・・・・・素敵♪」と素直に言えるようになった今、I先生と話がしたいなあと思う事があります。もうかなわぬ望みとなってしまいましたけれど。

というわけで「のだめカンタービレ・15巻」(二ノ宮知子著・講談社)です。

あいかわらずクラシックをとりまく奇人・変人・変態のオンパレードですが、15巻の極めつけは超絶モーツァルトマニアの元貴族、ブノワ氏が出色でしょう。のだめの初リサイタルを開いてくれるお城持ちの金持ちですが、筋金入りのモーツァルトマニア(んで、たぶん変態)。常日頃からモーツァルトかつらをかぶり、モーツァルト衣装を身に着け、コスプレに余念がない。新人の音楽家を発掘するのが趣味のありがたいパトロンだけど、弾かせるのは必ずモーツァルト・・・モ―ツァルト・・・。のだめの演奏指導には「ぱっかぱっか」とお馬の真似。

この強烈キャラにもまったく動じないのだめのキャラは本当に凄い。一緒になって「ぱっかぱっか」と二頭立てでお馬の真似。初リサイタルでモーツァルト以外聞く気のないブノワ氏にいきなりかますfffのリスト。「プランクトン多め」のラベル。

(のだめって変態で、その言動には大笑いさせられるけれど、いつだって誰にだってむちゃくちゃ真剣なんだよね。まじめなんだよ(かなりかたよっているけれど)。モーツァルトだってそう。スカトロマニアで変態でぶっ飛んでて、どうしようもないやつだったけれど、大まじめなんだよ。何に対しても。そこらあたりが大人になるとだんだんわかってきて、思うわけよ。あのクソまじめそうだったI先生は、実はとんでもなくおもしろい人だったかも知れないって。ガキだったからそこらあたりがわかってなかったんじゃないか?もったいないって。)

どうやらここらあたりから、のだめピアニストとしての生計がたってきそうな気配。のだめらしい普通のルート(チャイコフスキー・コンクールとかさ)からじゃないピアニストへの道を歩みそうだ。どうやって職業ピアニストになるんだ?ますます目が離せません!

初リサイタルお城編の最後で、ブノワ氏がちょこっとかつらを取ってみせる、こういうところの落とし加減も、あいかわらず絶好調!!

2006年8月 9日 (水)

真桑瓜の実(未熟)

Nec_0017_19日本の民俗学において、「瓜、水、龍、女」というのは縁の深いものです。

天の川伝説、あるいは橋の人柱、あるいは水神伝説、蛇身の女、・・・・・・・

水にまつわる伝説のそこかしこに瓜がしばしば現れます。なんとなくわかるなあ。瓜類は夏の暑い乾燥した日でもその球形の果実の中に実にふんだんな水分を蓄えています。暑い夏の日に冷やした瓜にかぶりつくときのしあわせ。昔の人も同じように喉の渇きをいやす瓜に不思議を感じていたのでしょうかね。

この瓜は決してスイカやメロンではありません。万葉の時代からある真桑瓜でなければ。 

岐阜県の真桑村が名産地だったのでこの名がついたそうですが、甘すぎず香り高くおいしいですよね~。

今年は初めて植えてみました。瓜類が軒並み遅れたのに、いち早くじゃんじゃか実がなってきてます。丈夫ってのもポイントだな。

落ち着きました

Nec_0018_16というわけで五月に孵化した若鶏たちを独立引越しさせたわけですが、まあ、大雑把なわたくしの事「屋根は明日でいいや。まだしばらく飛び出さないだろう。」などといいかげんな見込みをしていたわけですよ。実際昨日は新しい場所にまだなれてないせいか、一羽も飛び出してないし。

しか~ししかし。

夜が明けて鶏の目にもあたりがはっきり見えるようになったとたんに、脱走鶏がうろうろしているではありませんか!

12羽のうち6羽(半分だ!)しか中に残っていない非常事態。

「すまん!モモ(紀州犬雑種・5歳・女の子)頼む!!」

協力を要請し畑に藪に木の間に逃げ込んだ若鶏たちを一羽づつ回収して回りました。

犬というのは本当に凄いもので、人間だと絶対に入れない藪を軽くかきわけて追い、すばやい動きの鶏を簡単に取り押さえる、もしくは小屋のそばに上手に誘導するなどの動きを、惚れ惚れするような無駄のなさで見せてくれます。

モモよ!モモよ!ありがとう!あんたの値段は虎屋の羊羹二棹だったけれど、なんというお買い得な子だったことよ。ほんとうにありがたいことです。

新しい鶏小屋には屋根を被せ、やっと落ち着きました。

2006年8月 8日 (火)

引っ越しました

Nec_0013_21  雛たちが大きくなってきたので、親元から離して新しいところに引っ越しました。

鶏は雑食性なので肉も食べます。というより肉食に近いかも。だから狭いところでたくさん飼っていると、ちょっとした弾みで共食いを始めてしまいます。怪我をしたのがいたら、よってたかってその怪我を突くじります。滴る血の生肉のご馳走が目の前をうろうろしてるように見えるらしいのです。

地鶏くんの四羽の奥方の一羽も雛のとき怪我をして、危うく突くじり殺されるところだったのを、医療用接着剤とガムテープで「医龍」なみの手術をして、人間の風邪用のペニシリンを削って化膿止めに与えたのが去年の事でした。あんなのはもうごめんなので、早めに手を打ちます。

ヘビや鼬が心配なので、モモの目が届くところに新しい鶏小屋を用意して、今日引越しさせました。今までよりだいぶ広く、その広さにまだあまり慣れないようです。

毎日かあさん・背脂編

Nec_0014_18わたくしの知る限りの子育て中のお母さんは、みんな質実剛健です。

今の日本で妻となっても働かないと生活できないのは普通。(『景気の回復』なんて嘘だよな。『平成の大本営発表』じゃねえのか?)。働き、家事をし、ご近所づきあいをこなし、なおかつ親の介護までかぶりながら必死で子供を育ててる、そんなお母さんばかりです。

だから、よくある「いまどきの母親は、子供をよう育てられない。」とすべての母親を一括してくくる ご発言には猛烈に頭にきます。

ニュースで取り上げられる、虐待や子殺しをしたごく一部の母親の話を一般論に持ってくるのは止めろ!

どんな世代にも虐待や子殺しをした親は、必ず同じぐらいのパーセンテージで存在しています。だいたい「虐待をした人間は、自分も子供時代に虐待を受けている。」というデータがあるわけでしょうが。「親の因果が子に報い」なんだよ。昔はTVがなかったから、秋田だの福島だのの話を余所の土地の人間は知らなかったし、「児童虐待」という概念もなくて「躾」の中に入れるバカもいたからやはりひどい話はあったわけですよ。知らなかっただけで。

「『母さんは~夜なべをして手袋編んでくれた~♪』母親ばかり昔はいたのに今は・・・」バカなことを言うな!子殺しも子捨ても昔からあったし、今の大多数の母親も綺麗事ばかりじゃない子育ての現実で必死なんだよ。文句いうヒマがあったら手伝えよ!

――――というわけで大好きな西原理恵子氏の「毎日かあさん③・背脂編」(小学館)です。

西原氏の何が好きって、かますギャグと、その後ろに見え隠れする切なさと哀しみのバランスがいいのです。しかもそのギャグがとんでもなくスケールがでかい。全世界を股にかけて、それが決してお行儀よくない。アンダーグランドすれすれだったりする。観察眼が凄いんです。妙なモラルや固定観念のフィルターをかけずに、あるがままを描く。「これは今まで誰も描かなかったシンガポール(タイでも、カンボジアでもいろんな国名を入れてください)だな。」というところを平然と出してくる。その度胸たるや凡人はただ呆れるのみ。呆れて思わず笑ってしまう。何というパワーでしょう!

全世界を股にかけているくせに、家族、ママさん友達、身近な人々をこよなく愛して大事にしている。照れ屋さんで恥を知っているから、作品の中で垂れ流すような真似は決してしないけれど、その愛は深い。深すぎて底無し沼のようだ。西原氏のマンガにはいつも泣かされてしまう。ギャグで大笑いして油断していると「そ、そんな痛いところを、せ、切ないところをつかないでくれ~。」と、自分の中の生乾きの傷をいきなりつつかれる。痛いんだよ~これが。でも治療が痛みを伴うのと一緒で、痛みの後はその傷が持っていたどんよりとした熱や腫れが引いていく。気持ちがいい。

西原氏はたぶん余人には想像もできないような修羅場を潜り抜けてきた人なんだと思う。普通なら耐えられないような傷も痛みも負ってきてそれを乗り越えてきた人なのだと思う。そういう彼女が描く子育てマンガ。

凄いよー!!!

「いまどきの母親は云々~」とかほざく何も知らない「良識ある」人々よ。

これを読んでからいえ。

2006年8月 7日 (月)

泳ぐ牛

Nec_0008_21出水兵児の友人が一週間ほど里帰りしていました。実家が床上浸水だったそうで 、「・・・・・片付けに疲れました・・・・・」と一言。

鹿児島県北部の豪雨災害で被害にあわれた方々、重ねて心よりお見舞い申し上げます。

さて、豪雨の被害にあったのは人間だけではないわけです。川内で1800頭の牛を飼ってらっしゃる牧場の牛舎も水深2mまで水に浸かってしまったそうです。

2mといったらいかに牛でも足は立ちません。その恐ろしい夜、牛たちは鼻先を水面に突き出して必死で泳ぎ続け、翌朝夜明けとともに飼主さんが救助にくるまで耐えて、1800頭のうちのほとんどが生還したそうです。

スペクタコ―!!!

1800頭の牛が濁流の中を泳ぐ風景。想像するだに凄まじいものがあります。ギリシア神話のヘラクレスの偉業の中に、「30年の間一回も掃除していない3000頭の牛がいる牛小屋を3日で掃除する」というのがあります。ヘラクレスは「近所の川の流れを牛小屋に引き込んで押し流す」というはなはだ乱暴な解決をいたすわけですが、「こんなのお話だよ。ファンタジーだよ。」と思っていたら、な~にがなにが。わが鹿児島では、もろに現実のお話ではありませんか。

もっとも、それで牛舎がきれいになったのかどうかは知りませんが。(まず後片付けのほうがたいへんでしょう。「ヘラクレスの偉業」がファンタジーなのは、この後始末という現実を無視している事のほうですね。)

ともあれその夜の飼主さんの心痛たるや、さぞかし、とも思われますが(うちのヤギ達がそんな目にあったらと、考えるだけで胸がつぶれそうになるもの)、夜が明けるや否や駆けつけた牛舎で牛たちが生き延びているのを見て、そらあ嬉しかっただろうなあ。

2006年8月 6日 (日)

避暑

Nec_0007_17 猫を飼ってらっしゃる方はよくご存知でしょうが、この世で連中ほど冬場は家中で一番暖かい場所を、夏場は一番涼しい場所を、探し出す名人はおりませんでしょう。

猫がゴロゴロしている場所は、間違いなくその日その時刻のその家で、一番過ごしやすい場所なのです。

今日も人間の体温並みの暑さでした。下界より3℃ほど低いとはいえ、それでも32~33度はあります。こういう日でも直射日光が当たらず、涼しい風が通り、なおかつくつろげる場所というのをドリアン(アメリカンショートヘアのハーフ・12歳・じじい)とジョー(ヤス猫・11歳・じじい)はちゃんと確保しているものなのです。

連中を見ていると「だよなあ。この暑さだもん。昼寝よ昼寝。」です。できれば連中の発見した避暑地にわたくしも一緒に寝転がりたいものですが、だいたいテーブルの上とか、流しの上とか、水屋の上とか、とてもとても人間の体が乗るような場所ではないのが悲しゅうございます。

墓そうじ

Nec_0006_17 お盆も近いので、今朝は7時から町内会の墓そうじでした。

草を刈って、花を燃やすところの泥をさらって、水場の苔をこそげとって・・・・・

これでいつ誰が盆の墓参に来ても大丈夫。

2006年8月 5日 (土)

カボチャの花

Nec_0005_16 カボチャの花です。

昔は「実がなってこそ花。実のなる花だけが美しい。」

―――などという、クソ生意気な事を言っておりましたが、今は一代限りのF1の花や、極限まで品種開発されたバラなどという、いわゆる「女子供が好きそうな派手な花」なんかもちゃんと美しいと思います。「限りなき美をめざして、たとえ実がならずとも人為の限りを尽くす」という作業を「それも人間が為す美しい行為のひとつ。無駄だからこそ美しいものもある」のであると、認める事ができるようになったのです。大人になったものです。

しかし、このカボチャみたいに実質的な「実のなる」野菜の花も、昔と変わることなくだい好きなのです。

カボチャは特に好きだなあ。瓜類は夏に花をつけて実を結ぶものが多いけれど、その中でも特にカボチャの花はド迫力。なにせスイカの花よりはるかに大きいのだから。オレンジに近いほどの鮮やかな黄色も好みだし、ふんわり優しいシルエットもいい。たくましく美しいお母ちゃんみたいな花。

終戦時の食糧不足で、カボチャは実のみならず、茎も葉も花も食べたという事は経験者が語る事です。

確かに花を食べてもうまかろうとは思いますが。一生のうちで「腹が減ったあまり、カボチャの茎や花を食べた」などという飢餓状態にだけはなりたくありません。

女郎花の花

Nec_0004_17 女郎花の花が咲きました。

「女郎花」と書いて「ヲミナエシ」。読めないなあ~。でもこれは当て字じゃないの。「女郎」は「をみな」で若い女の事だからです。江戸時代に「女郎」は「春をひさぐ女」の意味になってしまいましたが、それ以前は普通に「女」を意味していました。それぐらい「たおやか」とか「しとやか」とかの形容詞をつけられている花です。

でもね~。この花はねえ~。

臭いのよ!

竜胆や紫苑や小菊と一緒に盆の花に使われる事が多いのでご存知の方も多いと思うけれど、とにかくなんともいえず何かのウンコか、たんぱく質関係の生ゴミが腐ったような悪臭がします。

昔の人も「臭い」と思ったらしく別名「敗醤」。「腐れ味噌」の意味ね。言い得て妙ですわ。それぐらい臭い。仏壇に飾ると臭いし黄色い花は飛び散るし、なかなか厄介な花なんだけど。色と格好がいいから、やっぱり盆の花に使ってしまう事が多いのですね。

しとやかそうでおとなしそうで楚々とした美女の足が、水虫で凄く臭いんだけど、「だって他に今いないんだもん。いいじゃん。グラビアから臭いがするわけじゃないし。」とモデルにしてしまうようなもんか。