椿屋敷のお客様

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2006年8月15日 (火)

嗤う伊右衛門

Nec_0030_15 「ヒュ~~オオ~~~」不安定な和笛の音程。

「どろどろどろどろ」静かにでもおどろおどろおしく鳴り響く和太鼓。

「ああ、幽霊がでてくる。幽霊がでてくる!!」

あれはよくできた効果音ですよね~。江戸時代に歌舞伎で使われていた効果音が、いまだに使われているわけです。怖いよ~~~。

「東海道四谷怪談」は傑作の多い歌舞伎の怪談話の中でもダントツの怖さだといいます。主人公のお岩様はとんでもない怨霊で、四谷怪談を舞台化したり映画化したり小説化したり、とにかくお岩様を表現するときには四谷のお岩稲荷にちゃんと詣でてからでないと、必ずや祟りがありましょう、ってんだからとんでもない。お岩様は著作権協会か?・・・・・・いやいや不遜な事は申しますまい。祟らないでね。パン!パン!(拝みました)。

「嗤う伊右衛門」(京極夏彦著・角川文庫)です。京極氏はこれを上梓するにあたって四谷稲荷に詣でたのでしょうか?

この作品は今まで伝えられてきたお岩様像とはまったく違う、美しく、素直で愛情深く、恨みのかけらもない誇り高い女性像として描いているのだけれど、・・・・・・でも、詣でたんだろうな。そういう作法をいかにも大事にしそうな京極氏。

「京極堂シリーズ」が大好きで、もちろん全部持ってるし、それどころか十回以上は読み返しているというぐらいのファンなんだけれど、「嗤う伊右衛門」を読んだのはずっと後でした。なにせ既存の「お岩様像」があまりにも強烈で。あまりにもどろどろベタベタじめじめして怖すぎなあの話を、どう料理しても「理不尽な不幸に、より理不尽な怒りで対抗する救いのない話」になるんだろうと思っていたので。

杞憂でした。これを読んでさらに「京極夏彦は凄い!!」と。

理不尽さはまるでなかったです。いや、不幸な理不尽はお岩様や伊右衛門殿に降りかかってくるんだけど(その元凶は伊東喜兵衛。こいつがまあどこをとっても救いようのない大悪党)、その理不尽に対して恨みを持ってこないの。なんというかクールなの。お岩様と伊右衛門殿が淡々と乾いた対応をして(伊右衛門が大工仕事が上手で寡黙な職人肌なのもポイント高し)、それがさらにより大きな理不尽の呼び水になるんだけれど、最後の最後まで二人は不幸ではない。それどころか「ああ、これはハッピーエンドなのだわ。」と思わされてしまう。普通には「ここまで陰惨な結末はないだろう」といえる狂気の沙汰な最後なのに。

読み終わった後に泣きましたね~。

「世界の蜷川幸雄」が小雪と唐沢寿明で映画化したので、これは見ねばならんと見ました。

わたくし的には「今まで見た邦画ベスト3」に入る感動作です。

主役の二人も美しかったですが、大悪党伊東喜兵衛を椎名桔平が怪演。衣装や調度の美術の趣味もよくて、伊東喜兵衛が持っていた人間が入りそうな大花瓶を欲しくなったほどでした。

歌舞伎の「四谷怪談」は今のシーズンの出し物。そう、この「嗤う伊右衛門」も今の時期にお薦めでございますよ。

2006年7月20日 (木)

市立図書館伊敷分館

Nec_0035_14 活字中毒気味なので、図書館は娯楽の殿堂です。特に鹿児島市立図書館にはたいへんお世話になっております。(まあ、税金払ってるんだから)。

今までずっと鴨池の本館に行ってました。しかし最近たいへん忙しくなり、しかもガソリンの価格が上がってきたので、この鹿児島市のチベットからわざわざ鴨池まで降りるのが億劫になってきて、不義理なことに何度か延滞してしまいました。税金払っているとはいえ(しつこい)、延滞はいけません。

今度も貸し出し期限が過ぎそうだったので「これはいかん」と、最寄の伊敷分館に返しに行きました。

びっくりしたなあ!

伊敷の公民館にくっついていて、部屋はもちろん小さいんだけど、すごく本の内容が充実してました!!

柴田よしき、京極夏彦、恩田陸、森博司、石田衣良、岩井志麻子・・・・・今ごひいきの作家さんたちのラインナップが、本館に劣らない揃えになってます。こりゃあいいや!

市立図書館では本のデータベース化が進んでいるので、パソコンで予約してここを受け取り場所に指定するのも可能。駐車場のめんどくさい手続きも要らないし、なにより近い!!

おみそれいたしました。市立図書館伊敷分館。

2006年7月 1日 (土)

薬草カラー図鑑

Nec_0031_15 もう二十年ぐらい使いつづけている「薬草カラー図鑑」(主婦の友社)です。

かなり手荒に扱ってますので、とうとうばらばらになってしまいました。それでまあ、つぎはぎですが布テープで補修いたしました。

こういう図鑑類は何といっても使い慣れたものがいいです。長年使い慣れると、「どこにどの植物が載っているか」漠然と覚えているものだからです。見当でひいても当たる確率が高くなります。ほんとこれになじんじゃって、使い易いんだよな~。できるだけ長持ちして欲しいんだけどなあ~。(だったらもっと丁寧にあつかえっちゅうの)。

2006年2月28日 (火)

地鶏くんの蹴爪

Nec_0021_12 うちの動物の中で1,2を争う攻撃力を誇る地鶏くんの蹴爪です。怖いぞ―――!!

洋の東西を問わず雄鶏は魔除けの動物として珍重されてきました。さもあらんです。もーむちゃくちゃ気が強い。縄張り意識も強い。おのれのテリトリーに入ってきた動物は、雌鳥以外は容赦なく攻撃する。人間だろうが神だろうが悪魔だろうが斟酌しない。誰よりも早く夜の明けるのを察知して、1km半径に聞こえてこだまするトキの声をあげる。幽霊だろうが吸血鬼だろうが雄鶏が鳴くと退散する。あっぱれ。天岩戸の前で「常世の長鳴き鶏」が鳴くと「天照大神」がお出ましになる。まことにあっぱれ。

小学校の図書館に、「世界の怖い話」とか「日本の怖い話」とかいう子供向けのアンソロジーがあり、子供向けとはいえ文章がしっかりしていて怖かったです。しかし子供は怖い物好き、繰り返し繰り返し読みました。

その中のルーマニアだかブルガリアだか東欧の雄鶏のお話が印象的でしたね――。

・・・・・その国では「火曜日に卵から孵った黒い雄鶏は魔除けになる」という言い伝えがありました。ある農夫がその言い伝えを信じて火曜日生まれの黒い雄鶏をそれはそれは大切にしていました。ある日農夫は空から棺桶が自分の家の屋根に降ってくるのを見てしまいます。あまりの恐ろしさに口もきけないでいると、黒い雄鶏が「コケコッコ―――!!」と高らかに鳴きました。すると棺桶は跡形も無く消えました。さらにしばらくして、もう一度棺桶が降ってきました。このときも雄鶏が鳴いて棺桶は消えました。さて、農夫の女房は卵も産まない雄鶏を農夫が身も世も無く可愛がり大切にするのをいまいましく思っておりました。「朝からうるさいのに昼間まで鳴くなんて。」

3度目に黒い雄鶏がたいへんな勢いで昼日中に鳴き始めたとき、女房は「ええい、うるさい!」と木槌を雄鶏に投げつけて殺してしまいます。

「なんということを!!」農夫は恐れおののきながら女房に言いました。「お前は雄鶏と一緒に俺も殺した。もう屋根の上の棺桶は消えない・・・」

その夜から農夫は高熱を発して、三日後には死んでしまいました。

うちの地鶏くんもよくトキを告げてくれます。いかにも魔が除けてくれそうな景気のいい鳴き声です。元気になります。ちゅうか、否が応でも目が覚めるので早寝早起きになるっちゅうの。健康になるっちゅうの。

2006年2月17日 (金)

レモン

Nec_0033_7 レモンの実がなりました。

柑橘類はほとんどがそうですが、暖かい地方でしか採れません。

ゲーテなどほとんど読んだことはないですが、ひとつだけ印象に残っているお話があります。「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」というタイトルだったと思いますが(うろ覚え)、主人公のドイツ人ウィルヘルムがみなしごのイタリア人の少女ミニョンを、ドイツに引き取って育てるけれど、生粋の明るいイタリア少女だったミニョンが、ドイツの寒く暗い空の町で暮らすうちに、どんどん生気を失っていき、最後に故郷イタリアを思いながら肺病かなんかで死んでしまう・・・・・というお話じゃなかったかな(うろ覚え)。違うかも。

そういうストーリーはうろ覚えなのですが、強烈に印象に残ったのがレモン。少女ミニョンがイタリアを懐かしんでいつも歌う

「君よ知るや南の国 

 レモンの木は花咲き

 暗き林の中に黄金したたる実は

 枝もたわわに実り・・・」

という、すごく美しい歌があったのです。ロマンティックで印象的でしょう?

どうも、ほとんど北国といっていいドイツでは昔から南国イタリアへの憧れがあったらしいのです。開放的とか情熱的とか(おなごが綺麗で自由奔放とか)まあ、東京の人が沖縄とかにいだきそうなイメージが、伝統的に特にインテリ(ゲーテみたいな)層のなかにあった。少女ミニョンとレモンはその象徴である。・・・・・という、解説が乗ってましたね。余計なお世話にも、ウィルヘルムはイタリアでのびのび暮らしていたミニョンを、淑女教育のためだかなんだか知らないけれどわざわざドイツに引き取って、まるで植生の北限を越えたレモンの木が枯れるように、ミニョンを死なせてしまったわけで・・・・・。

そういうとこが、いかにもプロテスタントのキリスト教がやりそうなおせっかいだよなー――。余計なお世話というか傲慢というか。

「憧れだかなんだか知らないけれど、無理やりレモンの木を北国に植える真似なんかしないで、リンゴ植えとけや。」

と、世界の大文豪ゲーテの本をやっとかっと1冊だけ読んで、印象に残ったのがこれだけ。しかもうろ覚え。いかんなあ。今読み返したら、少しはましな読み方ができるのかな。

2006年2月11日 (土)

日本ツバキ・サザンカ名鑑

Nec_0022_6 植物の同定に図鑑は欠かせません。

たとえばチューリップを説明しようと「花弁は6枚で(正確には3枚が花びら、3枚がガク)、釣鐘を上に向けたような形、色は赤、白、黄色など、草丈は30cm・・・」などと、いくら言葉を駆使しても、トルコ桔梗なんかをを持ってこられたりするでしょうが、絵に描けば子供の絵でも一発でわかります。それほど人間は視覚に頼る生物なのです。

外部情報の実に80%を視覚神経から入力しているといわれています。ここでいつも気になるのですが、人類発生から500万年、そのうちの4999900年ぐらいは動画なしの生活をしてきました。4999950年ぐらいはTVなしで生活してきて、それなのに特にこの30年ぐらいは先進国で大多数の人間がTV漬け、もしくはコンピュータのスクリーン漬けの生活をしています。大丈夫なんでしょうか?今人類の目は発生以来の何百万年とはとんでもなく桁違いの情報を浴び続けているのです。

現に近視の人間(わたくしを含めて)だらけになっておるわけですが、それ以上にその情報を入力され続けている脳のほうは?脳の情報処理能力は本当に追いついているのでしょうか?人類の今までの進化にはまったくなかった性質の奔流のような視覚情報の洪水。普通の人間の脳で本当にそれをさばききれているのでしょうか?

「冬眠」の記事でちらりと述べましたが、太陽光を浴びることは本来昼行性の人類には重要なことです。太陽光不足による「冬眠状態に近いといわれる鬱病」が存在するわけですが、それ以上に人類は「冬眠」でもせなやっとれんぐらいの過剰で危険な情報の洪水にさらされておるのではないでしょうか?情報処理に疲れきって思わず動けなく(フリーズ)なるほどの膨大な情報に。

TVを見ると最近特に疲れるのです。目が悪くなったというのもあるかも知れませんし、ここ10年ぐらい朝6時のニュースと夕方7時のニュースと「なんでも鑑定団」と「たかじんのそこまで言って委員会」ぐらいしか見てないのでついていけないのかも知れません。オリンピック中継も疲れて見つづけることができません。「自分で情報を調整し、制限できる」という点で、マンガや本のほうがまったく疲労しなくてすみます。だからといってマンガ漬けになっとりゃ世話はないのですが。

まあ、おかげさまでうちには農園がありますので、そこの緑と動物に関する仕事は次から次へと絶えることはありません。これは体は疲れますがTVを見た後の脳みそがぐったりする感じはないのです。母方のじいさんが遺してくれた椿や山茶花の同定も、なかなか調べるのはたいへんですが「疲れる」という種類のものではありません。

この「日本ツバキ・サザンカ名鑑」(日本ツバキ協会編・誠文堂新光社)の2400種が載った図鑑を木の下まで持っていって「あれでもない、これでもない)と検討しておるわけです。とはいえ素晴らしい写真がついていますので、かなり速やかに同定ができます。リーズナブルで持ち運びがしやすい割には凄く便利。昔の椿図鑑はなにやらぶあつーい作りで、持ち上げるのにも重かった。あちこちの椿の銘木の写真が載りすぎていて厚さ20cmはありました。それにくらべりゃこの本は情報が制限されていて使いよいです。厚さも2.5cmだし。よい本じゃ。

「椿・山茶花」欄の「品種解説」はこの本を参考にしています。

2006年1月30日 (月)

ヨモギ

Nec_0034_7 ヨモギでございます。

雛の節句にヨモギ餅をつくあのヨモギです。

七草に春の七草を使って七草粥を作るのも、雛の節句にヨモギ餅を作るのも、もともとは奈良時代の宮中で春の薬草摘みの行事を行っていたところからきたらしいです。すんげー長い歴史があったりするわけです。

10代の頃、井上靖の小説「額田女王」がそらもう大好きで大好きで 、歴史的な背景はもーどうでもええから、額田女王と大海人皇子と中大兄皇子の三角関係に「ホー――ッ」と溜息をついておりました。二人の皇子に愛されて、でも己は揺るがない。かあっちょええなあ。梅の花散る夜の大海人皇子とのベッドシーンも、雪の夜の中大兄皇子のベッドシーンもそらそらロマンティックで、「井上靖、文学界の重鎮とかゆうとるが、根っこはハ―レクインロマンスやんか。最高じゃ!!じいやん。」(某「愛ルケ」とは根本的にちがう)。

その三角関係の山場が、春の薬狩りの野での歌会。

当時、額田女王はすでに大海人皇子とは切れて、中大兄皇子の恋人だったのだけれど、大海人皇子は未練たらたら。三者ともが和歌の名手であるために、三者三様の思惑の交差する含みのある歌が交わされる。

「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」

さらっとこういう歌を歌ったりして、かっこいいぞ、額田女王!!

その奈良時代の薬狩りにちなんだ行事は南薩に長く残り、雛の節句には若い男女がみんなで、お弁当を持って野山に薬草摘みに行ったそうな。それを、明治までやっておったそうな。・・・・・ええやんか~~~!!

復活させよう、そういう行事。

2006年1月11日 (水)

ノースポールの苗

Nec_0031_7 「ノースポール(北極)」の名を持つクリサンセマムです。真冬でもマーガレットに似た可憐な花を次から次へとつけて、たいへん重宝します。

「北極」といえば、故・植村直己氏の「北極圏1万2千km」とか「グリーンランド」とかを踏破した探検記を読むのが大好きでした。極端な寒がりで高所恐怖症のくせに。人はえてして自分に無いものを求めてしまうものさ・・・・・ふっ。

エスキモーのイヌイットが、アザラシの肉を生でしかも腐りかけで食べるのを真似するところとか(口に肉をくわえてナイフで切って食べるんだよ。すげえー―)ね。腐りかけのほうが味がしておいしいそうな。しかも赤肉だけだとパサパサして味も素っ気も無いが、濃厚なアザラシの油を乗せて食べると食べやすくなるとか。ほえええ。

でも一理あるな。豚肉なんかもおいしいのは断然油たっぷりのバラ肉だもんな、うんうん、とかうなずきながら読んだものでした。

トナカイの背中に寄生する虫の幼虫を、手で押し出して口に放り込むところとか(蜂の子みたいな味だそうな)、凄い話満載。・・・・ってまた食べ物の話だけ印象に残ってるのかよ。

あ、あとそりを牽く犬達の話とかね。淡々と朴訥に事実だけを記述してるのに、ドラマッチック。やっぱり凄い探検家でしたね―――。

2005年12月23日 (金)

クリスマスプディングの冒険

Nec_0015_4  お客さまのtotto*さんも大好きだとおっしゃるアガサ・クリスティー。私も大好きです。

しかし根っから頭が粗雑にできているもので、「ミステリ」の部分は正直ほとんど飛ばして読んでいるようなものです。クリスティーの何が好きって何といっても雰囲気。イギリスの上流階級が繰り広げる紅茶とスコーンとサンドウィッチのアフタヌーンティー。カリカリに炒めたベーコンと卵のイングリッシュブレークファスト。カードゲームつきの晩餐会。そしてお屋敷で催されるハロウィーンパーティーやクリスマスパーティー。特にクリスマスパーティーはクリスティーが自伝で言っているように特別な思い入れがあるらしく、色んな作品の中に出てきます。んで、そのパーティーがなんとも言えず素晴らしい!

この「クリスマスプディングの冒険」は短編なのですが、それはそれは素敵な田舎の上流階級のクリスマスがでてきます。大量のヒイラギやヤドリギ。大きなクリスマスツリー。吊り下げられた靴下。暖炉の中で燃える丸太。牡蠣のスープに丸々と太った七面鳥の丸焼き。そしてクリスマスプディング。切り分けて上等のブランデーで作ったハードソースをかけて食すしろもの。イギリスではこのプディングにあらかじめ縁起物(ボタンとか指輪とか指ぬきとか)仕込んでおいて、誰に何があたるかで占いをするというゲームがあるのです。このお話の中ではその縁起物が重要な意味を持っていて、謎解きのきっかけになるのですが・・・

もう、謎なんかどうでもいい!という気分になるぐらい、クリスマスパーティーの描写がよろしいのですよ。出てくる食べ物、出てくる食べ物すべておいしそう。「古きよきイギリス」の伝統行事は、意味ありげで由緒ありげですごく楽しそうで上品。

正直言ってクリスマスパーティーが楽しかったことはあまりないのですが・・・「こういうのだったらいいなあ」と思わせる、文字通りのホームパーティー。ホームパーティー好きには必見の書でございます。

2005年12月22日 (木)

水晶

Nec_0009_6「寒~い寒いぶるぶるぶる」という、内容ばかりが続く今日この頃。12月の積雪としては、鹿児島気象台始まって以来の積雪量だということです。

雪ですら慣れないのに、氷河とか万年雪とかどんな世界なのでしょうね。おそろしく透き通って青い青い水晶のような場所。19世紀のボヘミアの作家シュティフターの短編集「石さまざま」の中に、「水晶」という美しくも荘厳な傑作短編があります。

クリスマスイブの夜、ボヘミアの山岳地帯の小さな谷間の村の幼い兄妹が、山の麓の祖父母の家から谷に帰る途中で道に迷ってしまい、不毛の氷河で遭難してしまいます。幼いなりに山育ちの二人は、知恵をあわせ力をあわせて、大人でも遭難死するような(わたくしのような寒かごろは一発ですわ)過酷な状況を乗り切り、奇跡のような山のクリスマスイブの光(オーロラでしょうか?)を見て、翌朝生還するというお話。

日本ではあまりなじみのないボヘミアの山岳地帯のつつましくも豊かな暮らしぶりや、侠気のある少年の父親(山男で靴作り師)や祖父(資産家の染物屋)たちの無口だけれど質実な性格、その強さを受け継いだ少年の知恵と勇気と優しさ、けなげでかわいらしい妹が、兄を信頼しきって発する「そうよ、コンラート!(ヤー、コンラート)」という言葉の響きの美しさ。本当に大好きなお話です。

兄妹に祖母が持たせた子牛の皮のランドセルの中身が、質素なんだけれどめちゃくちゃおいしそうでした。ハタンキョウのキャンディー。ふかふかの白パン。そして特別に濃く淹れた「体の芯からほかほかと暖まってくる」コーヒー。結局遭難した兄妹は、このコーヒーを少しづつ飲むことで、睡魔に抗い凍死しなくて済んだのでした。

翌朝、奇跡の生還をした兄妹を父の村と祖父の村から協力して出ていた捜索隊のメンバーが見つけ、そののろしを見た教会の神父様が、延期していたクリスマスイブのミサをあげ、下山の途中山々に透き通った鐘の音が響き渡る・・・・・

「それまで、上の村の子でも下の村の子でもなかった二人は、今やまぎれもなくふたつの村の子でした。」娘の結婚に反対で、しっくりいってなかった祖父の染物師と父の靴作り師も、自然に和解し、「奇跡の夜を境にふたつの村はひとつの村のように行き来をするようになりました」

「ホワイトクリスマス」という単語を聞くと、いつもこのお話を思います。