椿屋敷のお客様

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2006年11月16日 (木)

バッテリーⅢ

Nec_0018_23いまだ夢中の「バッテリー」(あさのあつこ著・教育画劇もしくは角川文庫)です。無事Ⅵまで借りることができ、もう何回も何回も読み返しています。

Ⅲでは、Ⅱで発覚した野球部リンチのために、練習することさえ禁止された新田東中野球部がありとあらゆる手を尽くして、校長に野球部活動再開を認めさせようというお話。

・・・・・・と、こうやってあらすじを書いてしまうと「へ?なに?それだけの話?」って思っちゃうでしょ?「田舎の中学の野球部が(サッカーですらないのよ)どれほどのもん?」って。

ふっふっふ。それが違うのよ。前の「バッテリー」のエントリーで書いたけど、まず主人公の巧と豪が曲者でしょ。その上に巻を追うごとにどんどん曲者が登場してくるのよ~!

Ⅲで目を引くのは新田東野球部の現キャプテン海音寺と、新キャプテンの野々村、そして隣の横手第二中の天才スラッガー門脇。

野球部再開の手段として顧問のオトムライが考えたのは、3年レギュラーと1,2年の紅白戦。それで校長にデモンストレーションして、隣の横手市の全国ベスト4の横手第二中と試合をする、という作戦。紅白戦では巧と豪のバッテリーが大活躍し、レギュラーに1,2年が勝つ。校長も認めかけた、そこに巧たちをリンチした当の展西たちが登場。オトムライとの確執が表面化し、再び野球部閉鎖の危機。

そこで海音寺の見せ場が!Ⅱで「内申書が怖いから学校には逆らえない」と自嘲していたキャプテンは、校長と直談判。「横手のほうから練習試合を申し込ませたら、試合を認めてくださいますね」と校長の言質をとる。海音寺の作戦は、横手の天才スラッガー門脇に巧の速球と勝負させて、それを餌に試合を申し込ませるというもの・・・・・

海音寺がね~。またいいのよ~。

前の巻ではほんの脇役だった彼がこの巻から大活躍!「さすがキャプテン!」とうなるようなまとめ役としての貫禄。校長との交渉シーンなんか惚れ惚れするような策士ぶり。かっこいいぞ―――!!中学生とは思えません。惚れるね。

また、この巻から登場する松井を思わせる天才スラッガー門脇。こいつも中学生とは思えん。この門脇が巧の速球に夢中になり、それを軸にⅣではさらに大きな展開になっていく。すごいよ~。「こうきたか~」と唸るから。

とりあえず読んでみてください。夢中になること請け合いです。

2006年11月 2日 (木)

バッテリー・バッテリーⅡ

「画像がダメなら文章を書けばいいじゃない!」

などとできそこないのマリー・アントワネットみたいな事を言っている場合じゃないのです。こういうときはブック・レビューだ!本だ。本の紹介だ!

というわけで、今夢中の「バッテリー」シリーズ(あさのあつこ著・教育画劇もしくは角川文庫)です。Ⅵまででているのですが、まだⅡまでしか読んでいません。残りは毎度おなじみ市立図書館伊敷公民館分館で予約済み。あああ、早く残りが読みたくてたまらないのに、読んでしまうのがもったいない。こんな切ない気持ち久しぶりよ!

もうね~~~。なにこれ?なんでこんなにドキドキするの?ワクワクするの?ホントに児童書だったの?ある意味凄くセクシーでエロティックな少年達の関係性を書いている作品なのに。究極のストイシズムこそが究極のエロティシズムに通じるのだと、改めてこの本によって思い知りました。

お話は単純かつ明解で、現代の、しかも岡山の田舎の野球少年たちが中学で野球をする、ただそれだけの話。

主人公の巧とね、巧とバッテリーを組む豪がね―――。イイのよ――――。設定ではこの二人はまだ中学はいりたての12歳。なのに、なのに、おばさん、不覚にも読みながらドキドキしました。惚れました。

巧は「子供であるとか大人であるとかを超越した」天才ピッチャー。12歳にして完成されたフォームとスピード・コントロールを兼ね備えた孤高の天才。天才くんにありがちな「おまえ~、もう少しでいいから協調性を持てよ~!!!」と読みながら喚きたくなるような社会性の無さ。でもね、でもね、読んでいるうちにね、そのあまりの孤高ぶりがね、カッコいいのよ――――。カッコよく見えてくるのよ――――。言っちゃ何だけどさ、挫折したりネジくれたりイジケたりそういう男にはもううんざりしてません?どんだけ周りから浮こうが疎まれようが、あきれるほどおのれの才能にのみ忠実な巧の、潔さ。たまらん。

そしてそれを支えるキャッチャーの豪。この子も12歳とは思えない底の知れない包容力をもっている。まあ、巧みたいな天才くんに惚れて押しかけキャッチャーをするような子だから、ちょっとやそっとの懐じゃやってられないんだけどさ、深いのよ。凄いのよ。そこらの大人の男じゃ及びもつかないような優しさ。鋭いけれど時としてそれで自分自身も傷つける巧を、そりゃそりゃうま~いことフォローして、世の中と折り合いをつかせていく、その頭のよさ。いいわああ、この子もいいわあああ。

あと巧の弟の体が弱い不思議少年青波、巧の祖父の元甲子園常連監督洋三、そして息子達に翻弄される母親達・・・・・・脇役も実にいいです。「ああ、いるいるこういう人。」典型をうま~くキャラクター化しています。素晴らしい!

ここよりネタばれ――――

Ⅱ後半で、巧は野球部の先輩達から、ほとんどレイプに近いリンチを受けるんだけど、そこからのシーンが、もおおお、ドキドキしました。

倒れている巧を豪が見つけて、たまたま親が留守だった自宅に連れ帰って、そりゃあ、かいがいしく手当てするのよ。どんな女も(男も)こんな手当てされたらもうメロメロよ。あんなひどい目に遭って「折れない・変わらない」巧の強さも強さだけど、その巧を「まるで息をするように自然に受け入れ癒し守る」豪も豪だわ。

リンチ事件が発覚して野球部の公式活動が禁止されたⅡだけどⅢではいったいどうなるの?早く読みた――い。

ああ、でも読み終わりたくな――――い。しつこくしつこくⅠとⅡを読み返しながら待つことにします。

2006年10月21日 (土)

邪魅の雫

Nec_0026_21 というわけで、待ちに待った「京極堂シリーズ」最新作「邪魅の雫」(京極夏彦著・講談社)買いましたよ。んで、一気読みしました。817p。

あいかわらず分厚いです。うっかり寝転がって鼻に乗せて居眠りしたら間違いなく窒息します。でも、京極夏彦の凄いところは、このページ数をまったくもって理路整然と、しかも毎回毎回違う趣向で開陳してくれるところです。凄い。何という整理能力でしょう。京極夏彦たいへんな量のあらゆるジャンルの蔵書を持ち、それを誰もが呆れるほどの美しさで収納しているらしいです。そういう人にしてはじめて書ける作品であります。

「故獲鳥の夏」をはじめて読んだときに、心より「あたし日本人でよかった!」と思いました。「日本人でなきゃこの漢字だらけで日本的な言い回しのみで構成された小説の味はわからんだろう。日本語を日常的に使う国に生まれて、この小説を読む幸運に恵まれてよかった」と幸せを噛みしめたものです。シリーズが進むにつれてますますその思いを強くしています。

偏見ですが英語で書かれたスティーブン・キングやアガサ・クリスティは邦訳で読んでも結構味は伝わってるんじゃないかなあ?と思うんですね(原文を読んでないくせに決め付けてます)。でも京極夏彦、特に京極堂シリーズを英訳するのは不可能じゃなかろうか?広い世の中のことだから、たぶんもう英語版も出ているのかもしれませんが、それはもう原文のシリーズとはまったく違うものじゃないでしょうか?「故獲鳥の夏」は映画化されましたが、それもたぶんまったく違うものなんじゃないかなあ?観てないくせに決め付けてますが。それほど京極夏彦の文章世界は独特です。他に類がない。空前絶後とはこのことです。

さて、今回の「邪魅の雫」、どちらかといえば今まで脇役もいところだった警察の面々、元警察官の益田、現警察の青木、山下にスポットライトが当たっています。(京極堂と訳アリっぽい、公安の郷嶋、ちょっとかっこいいぞ)いつもの主役クラスたち、憑き物落としの古本屋京極堂、鬱病小説家の関口、ドはずれ警官の木場、そして何より神に等しい探偵榎木津の活躍場面はあまりありません。いわば脇役ユニットによるバージョンにもかかわらずこのおもしろさ。社会派警察小説のような趣です。松本清張や高村薫ばり。ほんと何でも書ける人なんだなあ。

まあ、わたくし芯から榎木津ファンなので、もっと出番が欲しかったところですが、いつもと違う榎木津を見ることができたので良しといたします。そうか~。榎木津。傍若無人な彼にもこういう一面があったのね。なんだか心がキュウンとなりました。これ以上はネタばれなので触れません。

京極堂シリーズファンのみなさま、やっぱり「邪魅の雫」はおもしろかったです。んで、まだ未読の方々はまずシリーズ最初の「故獲鳥の夏」からお読みする事をお薦めします。自分の中の「日本語の可能性」がグ―ンと拡がる事間違いなし。それはとても幸せなことでありますよ。騙されたと思って。ぜひ。

2006年9月29日 (金)

花咲慎一郎シリーズ

Nec_0026_20柴田よしき氏も大好きな作家で、「リストの端から端まで」読んでしまいます。シリーズものもいくつかあるのですが、複数のシリーズにでてくる山内 練というキャラが出色のできですぞ。

山内 練(やまうち れん):女と見まごう美貌のヤクザ。悪魔的に頭がよく、センスがよく、残酷で守銭奴で、おまけにバイセクシャルときたもんだ。しかもヤクザに転落したきっかけがまったくの冤罪。それまで育ちのいい内気な理系の大学院生だったのに無実で刑務所に叩き込まれて、美貌のせいで女の替わりに犯されまくって運命がおかしくなってしまった。名家だった彼の家族もスキャンダルで離散の憂き目に会い、政治家目前だった兄は自殺。だから美しく残酷な顔の後ろに癒せない悲しみと怒りを背負っている――――

どうです?この設定だけでも女心を鷲掴みにされません?最初に彼が「村上緑子シリーズ」の「聖母の深き淵」ででてきたとき「やられた~~~~!!!」と思いましたもん。それ以来「山内は出てこないかな?出てこないかな?」と他のシリーズでも探してしまうありさま。「やるな、柴田よしき!」ですよ。こういうキャラは女性の作家じゃないと使いこなせないと思うな。はっきり逆性差別しちゃうよ。

この「花咲慎一郎シリーズ」・・・・・今のところ「フォー・ユア・プレジャー」「フォー・ディア・ライフ」「シーセッド・ヒーセッド」の三冊が出ていますが、三冊ともに山内がでてきます。だからというわけじゃないですが数多い柴田よしき作品の中でこのシリーズが一番すき。(実はもひとつ「猫探偵・正太郎シリーズ」てのがあって、これも最高なんだけど・・・ああ、甲乙つけがたい!)

主人公の花咲慎一郎もすごくいいんです。元警察官。正義感が強すぎてヤクをやっていた同僚を撃ち殺しちゃって「仲間殺し」の汚名を着て転落。ヤクザ御用達の泥の中を這い回る探偵になっちゃった。さらに、ふとした縁で、新宿二丁目にある「にこにこ園」という保育園の園長さんも引き受ける羽目に。水商売女性の子供達を引き受ける「にこにこ園」は慢性赤字。でも、元来花咲は素直でまっすぐな男なので、それはそれは幸せそうに一生懸命「園長さん」をやってるの。んで、「にこにこ園」を維持するために「副業としての危険な探偵業」を続けているというわけ。

ただでさえ「24時間営業の保育園の激務」の上に「ヤクザがらみの探偵仕事」が重なると、「花咲、いつ寝てるの?」という次から次へと事件状態。しかもその事件が二重、三重に絡んでいて「どうなるの?どうなるの?」とページを繰るのももどかしいおもしろさ。

柴田よしき氏が1児の母なので、子育てや保育園の実態もものすごくリアルでおもしろいし、ストーリーテラーなので探偵業やヤクザの描写もすごくおもしろい。

んで、問題の山内は花咲とどう絡むのかというと、なんと花咲、「にこにこ園」の土地代の借金の方に、4千万の生命保険にかかって、その受取人が山内、という契約をしてしまうんですわ。つまり、返済が遅れたらこの世から消されちゃう契約。ここらあたりのバカ正直な花咲とクールな山内のやり取りも抜群。愛すべき男・花咲を愛する女たち、イタリア料理のシェフの理沙も、女医の奈美も、別れた元妻の弁護士麦子も最高!このシリーズも、いつか映像化されんかな――――?

・・・・・と思っていたら、いつの間にか二時間枠でドラマ化されていたらしい。ええええ?どうだったの?

花咲役は高橋克典がやったのですって。まあ、適役か。

んで、んで?山内役は誰がやったの?あの役ができる日本人の役者がいるの?ヘタな美形もどきじゃ許さんぞ。誰だ?誰がやったんだ?知りたー―――い。

2006年9月23日 (土)

図書館からお知らせ

Nec_0016_19こよなく愛する鹿児島市立図書館が明日から二週間の秋の整理期間にはいります。

膨大な本を整理するのだから二週間かかるのはいたしかたないとはいえ、その間本を借りる事ができないのはきついなあ・・・・・。一応いつもなら5冊の借り制限が、10冊になっているので、「読みたい本はいまのうちに借り溜めしといてください。」といわれているんだけど。そのつもりで借りていた10冊はもう読み終わってしまっただよ。

「予約本がはいりました」と、最寄の伊敷公民館分館から電話があったので、今日中に借りに行かねばならん。

2006年9月10日 (日)

ドミノ

Nec_0062_3昔京都に祇園会館とみなみ館という名画座があり、学生時分毎週末にオールナイト3本立てを観に行ってました(当時は徹夜も大丈夫でした)。 一生で一番映画を観た時期でしょう。

すでに重症のマンガ・ジャンキーで活字中毒者だったので、自分が好きなマンガや小説を「どうやったらおもしろい映画にできるかなあ。」と、勝手に監督や俳優をキャスティングして楽しんでました。映画好きがよくやる遊びだよなあ。

今はもう映画どころかTVもほとんど見ない生活になってしまいましたが、マンガと本はあいかわらずなので「これは!」という作品に当たると「ええっと、映画にしたほうがおもしろいかな?それともTVドラマにしてじっくり見せたほうが・・・」などと勝手な事を空想することはよくあります。それで、今一番「映画化したらおもしろいのに~!」と思うのがこれ。

「ドミノ」(恩田陸著・角川書店)。

これはね――――!おもしろいよ――――!!文字通り大笑いするぞー――!!

SF作家筒井康隆氏が始めた、スラップスティックという群像ドタバタ劇とでもいうべきジャンルがあります。「ドミノ」はそれの無二の傑作です。恩田陸氏の作風は通常ホラーやミステリーに近いので、こげなお笑いの傑作を書けるとは本当にたまげました。恩田氏いわく「恐怖と笑いは近いところにある感情」なのだそうですが。

群像劇なので登場人物がやたら多いです。しかし、この小説の真の主役は迷路のように入り組んだ構造を持つ東京駅。その東京駅の構内で、夏のある一日に起こった世にも稀な大騒ぎをいろんな切り口でいろんな視点からあますところ無く書くという手法をとってます。

なにせこの事件に関わったのが

  1. 営業成績に追われる保険会社の社員たち
  2. その保険会社の契約書を届けてくれる元暴走族の千葉のピザ屋たち
  3. そのピザ屋を追いかける千葉県警の巡査たち
  4. その保険会社主催のミュージカルのオーディションを受けている子役志望の女の子たちとその親たち
  5. 別れ話を東京駅の喫茶店でしようとしている銀行員と青年実業家と画廊に勤めるその従妹
  6. 学生ミステリ連合会の会長の座を争う学生たち
  7. 熱狂的ファンを持つアメリカ人のホラー映画監督とそのペットと通訳を務める霊感女
  8. TVキャスターとそのスタッフたち
  9. ネット俳句の会の茨城の農家と元警視庁OBたち(全部じじい)
  10. 時限爆弾を東京駅に仕掛けようとしているドジなテロリストたち

ざっと、数えただけでもこれだけの登場人物。普通これだけ人間が出てきたら話がごちゃごちゃして訳がわからなくなるんだけどなあーー。恩田陸はすごいぞ!すべての登場人物と状況を、生き物の内臓のように入り組んだ東京駅の構内で絡み合わせ、ダイナミックに動かし、さらなる大笑いの渦に叩き込んでくれるぞ。それでありながら非常にシンプルでわかりやすい。タイトルの「ドミノ」は、このたくさんの登場人物たちが、まるでドミノ倒しのように関わり合い干渉しあいながら、とんでもない方向へ状況を運んでいくことからつけられたのでありましょう。

恩田氏も「リストの端から端まで」読んでしまうリスペクトする作家ですが、こんなお笑いモノが書けるとは思っていませんでした。小説を読んで思わず声を出して笑ったのは本当に久しぶりです。とにかく読んでみてください!このおもしろさをぜひ誰かと分かち合いたい。

それで誰かこれを映画化してくれないかな?ほとんど東京駅構内の話なので予算もかからないと思うんだけれど。あああッ日本だと公共の場での撮影の許可がでにくいのか?なんとかそれをクリアーして、誰か、誰かこれを映像化してくれえええ―――!!

2006年9月 5日 (火)

死の壁

Nec_0051_2 マンガ・ジャンキーな上に活字中毒者なのです。でも、マンガでも本でも一旦「いいな」と思った作者のものは、作品リストの端から端まで読んでみる、という読み方をします。だから偏ってるぞ~。

そういう「リストの端から端まで読んだ、リスペクトしている作者」の中に橋本治氏と養老孟司氏がいます。

このお二人に共通しているのは、「楽天性」と「体を動かせ」と「人も世の中も変わらないものは無い」でしょうか。1980年代からコアなファンがついていた方たちですが、橋本氏は「古典の現代語訳や辛口評論(ご本人はこれについては不本意らしいけど)」、養老氏は「専門の解剖学をベースにした、これまた辛口の文明論、社会論」という「いかにも売れなさそう~な」でもマニアにはたまらん本ばかり出しておられました。「ふっふっふ、だからこそあたしは読むのよ。」と、新刊が出るたびにチェックして本屋なり図書館なりに走り、舐めるように読み続けて21世紀となりました。なんちゅうの?ブレイク前のアイドルオタクみたいな心境?(いや、お二人ともちゃんと売れてたんだから、ちょっとこれは失礼だって。)

ところが、どういうわけか21世紀になってから、このお二人の著書がいきなりとんでもないバカ売れ大ヒットをして、たまげました。

橋本氏の「上司は思いつきでものを言う」と養老氏の「バカの壁」です。

嬉しかったけど、複雑。独り占めしてたのにって。

(いや、だから独り占めなんかしてないって)

それと同時に「ああ、世の中って変わっていくんだなあ。」としみじみ思いました。「偏屈な変わり者」であったはずの(なんちゅうご無礼をば。ほんとにファンか?)お二人の本が爆発的大ヒットする時代がくるとは。

「この世が永遠不変である。」と信じたがるのは「子供」でしょう。子供の頃は自分の周りの景色も人間関係も世の中も自分自身すらも変わる、ということが実感としてわかりません。大人になるにつれて、例えば身近な人間が亡くなる、景色が変わる、社会情勢も変わる、ことを実際に経験してしまいます。どんなに愛したものも、どんなに憎んだものも、時間がたてば心が変わっている自分に愕然としたり。

でも「この社会も自分も永遠不変である。」という前提以外を許さないのが高度成長期でした。「いつかは自分も死ぬ。いつかは社会も滅びる。」ことを見てみぬふりしてきた。そのツケが今まわってきているのです。(わたくし自身にもね)

バブルは崩壊したし、ベルリンの壁は崩れたし、阪神大震災は起こるし、地下鉄サリン事件、そして9・11事件。

「万物は流転する」のです。それをいたずらに不安がってどうする。怖い怖いという前にとりあえず体を動かせ。動かせば必ず脳も変わる。脳が変われば選択肢が増えて硬直した状況が動き出すぞ。状況が変われば楽天的になれる。終始一貫して養老氏の主張はこうです。

「楽天的じゃなきゃ、還暦を過ぎてから本がバカ売れしたりしないでしょ。」とは、Dr.ヨーローの名言。じゃっど。うわさでは新潮社では「『バカの壁』ヒット御礼ボーナス」がでたそうな。

「死の壁」(新潮新書)は「バカの壁」に続く第二弾。たくましいのう。かくありたきものよ。

2006年8月30日 (水)

池袋ウェストゲートパーク5・反自殺クラブ

Nec_0039_9 故ナンシー関画伯が『ろくに見もしないで「テレビなんかおもしろくない」と言っているのにはムッとする。そういうのは私のように目がかすむまでテレビを見た者が言ってこそのセリフである。』とおっしゃってますが、まさしくその通りでしょう。ほとんどTVを見ないわたくしは、TVについて何もいう権利がございません。

脚本家宮藤官九郎の出世作TV版「池袋ウェストゲートパーク」も、去年ビデオ(DVDではない。泣ける)で観ました。石田衣良氏の原作(文藝春秋社)は、ほぼ発売と同時に読んでいるというのにです。我ながら現代日本に住んでいるとは思えない偏った情報の元に生きています。TV版もおもしろかったけれど、やはり原作とは違いますね。テイストが。

最初に原作の「池袋ウェストゲートパーク」を読んだときにはたいへんなショックでした。あまりのカッコよさに!

翻訳物を読んでいるみたいな垢抜け振り。でも舞台や風俗はまぎれもなく今現在の池袋(らしい。池袋知らないけど。)。あとで「A・ヴァクスの『フラッド』の雰囲気で書いた」というインタビューを読みましたが、まさしく、それ。ストーリーの作り方、文章、キャラクターの造形、すべてが骨太でオーソドックス、クラシックともいえる手法なのに、このおもしろさ。

「この作者は、悪党だわ!」確信いたしました。

いっちゃ何だけど、それまでの和製ハードボイルドはおもしろくなかった。特に男性作家のやつ。だってさ、主人公(だいたい30代~40代の男だ)が女々しいんだもん。「殺された女房の、子供の、恋人の、親の復讐のために単身巨大悪に挑む」こればっか。「だいたい女房子供を守れなかったのは、てめえがドジで身のほど知らずだからだろうが」とか「復讐の途中で人様に迷惑かけんな。あああ、また犠牲者が・・・」とかツッコミどころ満載。そのくせやたらとセンチメンタルでジメジメしてる。「女房が死んでから復讐するより生きているうちに大事にしろよ!甘ったれんな!」と、腹が立って腹が立って。

「池袋ウェストゲートパーク」は、その点目が覚めるほど鮮やかでした。主人公の果物屋のマコトのカッコよさ。ハードボイルドの常套、自嘲的セリフも満載なんだけれど、マコトが言うと卑屈じゃない。いわば「自分ツッコミ」でからっと笑わせてくれる。この「からっと」したところが大事よね。なんつっても「ハードボイルド」は「固茹で卵」よ。からっと乾いた文体が身上でしょ。

池袋のGボーイズを束ねるキング・タカシ(またこいつがカッコいい)。若手有望ヤクザのサル。しけた池袋署の刑事吉岡。鉄火なマコトの母。凄腕ハッカー・ゼロワン。まだまだいるけど、もう出てくる奴出てくる奴、「世の中の大勢に流されず自分の中のモノサシで判断する事ができる」カッコいい奴ばっかり。「池袋ウェストパークシリーズならいくらでも書ける」と石田衣良氏は言ってるけど、いくらでも書いて欲しいよ。「いつまでもこの世界に浸っていたい」と思わせる。どの話も後味が凄くいいのです。これだけ、毎回毎回「普通こんな事知らんだろ」というような悲惨なアンダーグランドの話を書いといてこの後味の良さはただ事ではない。

考えられる事は一つ。石田衣良氏が本物の悪党である。これしかない。どんな泥をかぶろうが汚物をかぶろうが汚れない揺らがない。それは腹をくくった本物の悪党にしかできない事。

TVを見ないのでよく知らないけれど、どうも石田衣良氏はTVにも雑誌にも今引っ張りだこらしい。雑誌で見る限りその意見には揺れがない。TVではどうなんだろう?もしナンシー関画伯がご存命だったら、石田衣良氏をウォッチしていただろうか?なんと言っただろう?読めないのが本当に残念です。

今回のⅤで一番よかったのは「スカウトマン・ブルース」。18人の女の子を風俗に紹介してその上がりで食っている凄腕スカウトマン、タイチ。この、聞くだけならば最低の男の、他に類を見ない魅力をあますところなく文章で見せる。なんという説得力。「やはりこの作者は悪党である。」と確信するのですが。

2006年8月24日 (木)

半島を出よ

Nec_0022_22日本のヴィジュアル作品の中で、もっとも害毒を撒き散らしているのは、「どらえもん」と「水戸黄門」と「スタジオ・ジブリの作品」であると思います。(あああ、とうとう言っちゃった)

「どらえもん」・・・・・「助けて~どらえもん!」といいさえすれば何でも尻拭いしてくれる存在があると錯覚させる。マザコン養成アニメ

「水戸黄門」・・・・・正式な裁判も何もなしに、一回につき何十人も人殺しをする(正確には殺人教唆。「助さん格さん殺っておしまいなさい!」)危険なジジイを日本国中に野放し。リンチを正当化するファシスト養成番組。

「スタジオ・ジブリ作品」・・・・・ロリコンのロリコンによるロリコンのためのアニメ。

というわけで、これらをまったく好きませんが、「放送するのを止めろ!」とは言いませんよ。どんな意見であれ発言の権利があるのが民主主義社会ですから。片腹痛いのはどうやらこの3つが多数派らしいところですが。

こんな危険なものを平気で地上波放送してるくせに、ときどき「えっ?どうしてこれが検閲にひっかかるの?」てのが問題視されたりしてます。記憶に新しいのが「バトル・ロワイアル」(高見広春著・深作欣司監督)でした。国会まで巻き込んでのR指定(他にやることなかったんか?)。ちゃんと本読んだの?映画観たの?生と死について極限まで考えさせる傑作だったのに。

作家の村上龍氏も毀誉褒貶の激しい人で、芥川賞の「限りなく透明に近いブルー」からそらもうむちゃくちゃ叩かれてました。(いまや審査員になちゃったんだなあ。)この「半島を出よ」(幻冬社)も誉める人は誉めるけど、けなす人は読みもしないうちからケチョンケチョン。

・・・・・2011年、福岡を北朝鮮の軍隊が占領する。為すすべもない日本政府は何の方策もないまま九州を封鎖。

もう紹介文のこの一文だけでだめな人はだめらしい。

「読まずともわかる!結局憲法改正、再軍備が必要だといいたいのであろう。いたずらに北朝鮮への敵視を煽ってまで話題性が欲しいのか?この手の右傾化が進む昨今の日本は・・・・・」

そんなこと一つも書いてないぞ。とりあえずまず読んでから言えってば。

だいたい村上龍氏は「国の基幹は経済であって、経済の破綻した国はどんな軍隊を持っていても国際的な信用を得られない。」って主義の人で(まったくもって賛成だわ)、繰り返しそのことを作品の中で言っているのに。(「希望の国のエクソダス」もそうだったな)

「半島を出よ」では、北朝鮮軍と日本政府と博多市民と、それから社会に適応できない少年犯罪者グループ、それぞれに属する人々からの視点で書かれていて、なかなかの読み応え。どちらかというと昔の村上龍氏からすると「丸くなったなあ~」ってほどですが。

ネタばれするので言えないけれど、ラストも現実に九州に住むものとして「ん!だよだよ!そうでなくっちゃ~!」という、たいへん納得の行く解決をしてくれております。繰り返しますが「再軍備のサの字」も出てこないぞ。

九州人なら読んだほうがよかど。それにしても、こんなにまともなことを書いているのに、しかももう結構いい年なのに、なんで村上龍ってこんなに誤解されるかねえ。おなじ村上でも春樹とは大違い。そこらあたりが九州男らしい不器用さで、おかしくなりましたですよ。

2006年8月19日 (土)

アルジャジーラ

Nec_0010_17開き直って寝転がって本とマンガを読みまくった昨日でありました。その姿氷上に転がるトド、アザラシの如し。人さまには見せられず。

ずっと読みたかった「アルジャジーラ」(ヒュー・マイルズ著・河野純治訳・光文社)です。

イラクで日本人が人質になったり、残念ながら殺されたり(ご冥福をお祈りいたします)、した時に、必ずこのアルジャジーラという衛星TV局がゲリラに向けて人質解放の呼びかけを放送してくれましたよね。「BBCでもCNNでもない、カタールの小さな民間放送らしいのにアラブ世界には凄い影響力があるんだな。」と俄然興味をひかれました。

そういえば9.11事件以降トチ狂ったブッシュ・ジュニアが「アルカイダ殲滅、オサマ・ビン・ラディン抹殺」を唱えてアフガニスタン侵攻したとき、 世界のメディアの中でアルジャジーラだけが「ビンラディンのインタビュー(というかアメリカへの宣戦布告)テープ」を放送したし、アメリカ軍がただでさえギリギリの生活をしているアフガニスタンの民間人の施設を爆撃してるのもすっぱ抜いてるし、「フセイン逮捕」を唱えてイラク侵攻したときもやっぱりアメリカ軍のイラク民間人への攻撃や虐待をすっぱ抜いてたし、パレスティナのイスラエル軍の暴挙も出すが、自治政府(故アラファト側ね)の腐敗ぶりもすっぱ抜いていたんですよね。

中東についてまったく詳しくありませんが、世界の中でも有数にドンパチの多い地域だという認識はあるし興味もあります。それでまあ、手に入るニュースはそれなりに注意してみていると必ずでてくるのがこの、アルジャジーラ。

日本人人質事件のとき、日本政府が「自己責任」という「その使い方間違ってねえか?」な言葉で事実上同胞を救う何ら有効な手立ても打てなかったときに(アメリカだって役に立ってなかったじゃん)、あまり縁のないペルシャ湾の小国(天然ガスで裕福らしいけど)の放送局が、一肌も二肌も脱いで救出の呼びかけをしてくれて、香田証生さん以外は助かっている。「ありがたいこっちゃ」と思いませんでしたか?

もっとも中東に情報ソースの少ないNHKが、アルジャジーラの映像をかなりの高額で買っているらしいので、そこらあたりのご縁もあって尽力してくれたのかもしれませんが、それにしてもね。イスラム原理主義だのシオニズムだのインティファーダだの、余所の地域にはわからない、首を突っ込めないことが多すぎる中東で、民間人はもちろん政府関係者、ゲリラにまで信用されている放送局って何?

その疑問にこの本は答えてくれましたです。

要するに「アラブ人のアラブ人によるアラブ人のための真に民主的な放送局」なんですわ。

アルジャジーラは今でこそ名声を得ているけれど、とにかく設立当初から敵が多かった。周り中すべてが敵だらけ。なんとアラブ諸国ことごとくに敵視され、そのたびカタールは外交圧力をかけられたそうな。一般人には最初から指示されていたけれど民主的とはいいがたい他の国の首長にはたいそう煙たい存在だったらしい。自国の首長や政府にも噛み付いているらしいからそこのところ徹底してます。

アルジャジーラの基本方針は「一つの意見があれば違う意見もある」で、たとえばパレスティナ問題を出すときは、パレスティナ側、イスラエル側双方のもっとも過激な論客をだしてくる。そしてアルジャジーラはあくまで中立でどちらも裁くことをしない。報道機関として正しい、実にアッパレな姿勢ですが、これがパレスティナ、イスラエル双方に敵を作る。パレスティナ側は「イスラエルの犬」といいイスラエル側は「テロリストの味方」とののしる。なんだかなあ。

すべてがこの調子で、「どちらか一方にだけ肩入れしない」というその姿勢が「治安を乱す」と憎まれた。アメリカはその際たるもので、アフガニスタンにおいてもイラクにおいてもアルジャジーラの記者を理由なく逮捕したり拘束したりしたというから目も当てられない。それどころか支局を爆撃したり、記者を狙撃したりしている。もちろん名目は事故。あのなあ。アルジャジーラは最初から「アメリカ側の言い分も言ってくれ」と要請してるのにそれは無視して頭から「テロリストに味方する放送局は許せん!」の一点張り。「ファシスト国家を潰す」とか言ってる奴のほうが「ファシスト」じゃん。自由の女神が泣くぞ。

どんな妨害にも圧力にもめげず、アルジャジーラは揉め事の双方の意見を放送し続けました。結果「正確な情報をアルジャジーラだけは流してくれる」と一般の支持を得て、アラブ世界では№1の放送局となったわけです。たいした心意気じゃありませんか!

新聞の書評で「元気のいいトップ屋集団、それがアルジャジーラ」とありましたが本当にその通り。日本でもアルジャジーラの放送が見たいのに、なぜかスカパーでやってたのがなくなってるの。なぜ?

なんか都合の悪い事、隠してるんじゃないでしょうね?