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赤くてぷりぷりして一見おいしそうなのですが、これは毒草です。青酸系の毒を含み食べると激しい嘔吐と呼吸困難をおこします。コワ―――!
巷では毒物が話題になっていますが、怖い毒というものは身近になんぼでも存在しとるわけです。夾竹桃、レンゲツツジ、すずらん、シキミ、彼岸花、福寿草、チョウセンアサガオ、ポインセチアetc・・・・・全部普通にそこらに生えてます。だいたいジャガイモの芽からして毒だっちゅうの。こういう「身近な毒物を使った殺人」をよくテーマにしたのがアガサ・クリスティでしたな。ミス・マープルシリーズ大好きです。いかにもイギリス人らしい優雅でユーモアのある生活の中に、忍び寄る人の心の毒と現実の致死毒。ドキリとするような残酷さも流麗なクリスティの筆にかかるとある種の美しさすら感じさせてくれるのです。やっぱ「杉の柩」ですかね。あとどういうわけか「パディントン発4:05分」が大好きなんですよね。オクスフォードの数学科を主席ででたのに家政婦をやってる若くて美人のスーパー家政婦が大活躍します。どちらも毒物が使われてたな。「マッシュルームはたいへん危ないのよ」というセリフもでてました。あちらじゃ生で皮をむいて食べるのでよく中毒するらしいです。ああ、ここにも毒物。いくら毒物の管理を厳重にしたところで、殺意のある人間からこの世の毒物の全てを隠し通すことはできません。あとは身近な人間が「殺意をもっていない」こと、そして自分も「殺意はない」ことを信じ合うしか手はないのです。その信頼関係こそが社会というものでしょう。
明治維新以前の社会システムが「士農工商」で、日本の人口のうち「士」が1割で「農工商」が9割だったことは近世史の最初に出てくることです。ということはですね、サラリーマンは「士」の一割のみだったわけですよ。今みたいに「猫も杓子もサラリーマン」になったのは戦後高度成長期のほんの4、50年の間なわけですね。現在サラリーマンの人たちも三代もご先祖さまをたどればかなりの確率でなんらかの物作り(食べ物、着る物、住む所、道具etcなんでも)をやっていったのです。ね。われわれの遺伝子の中に「何か物を作らずにはおれん」衝動が組み込まれていてもなんら不思議はないですわな。「物作り」といっても「プロジェクトX」みたいな「世界最大、最高、最速、最小」とかの大げさで組織的なものだけじゃないでしょう。ちゅうより女子供年寄りが「金になるかどうかわからんが、とにかく作らずにはおれんで作った手遊び」こそが、結局は「くに」の底力というか支えだと思うんだけどなあ。
今評判の「ハチミツとクローバー」(羽海野チカ・集英社・既刊8巻)。大好きなマンガなんだけど、これが新鮮だったのは「とにかく物を作らずにはおれん若い衆」を正面切って描いてきたことですね。貧乏美大生たちの日常生活から「物を作る意味とは」「オリジナリティとは」「好きなこととと金を稼ぐこととどう一致させるか」という今の世かなーり深刻な問題を、かわいい絵柄とテンポのいいネームで読ませてくれますですよー。
小さい体と人見知りな心をもちながら誰をも感動させる美術的才能をもつはぐちゃん。几帳面で凝り性、それこそ細かい職人仕事をこつこつとこなせる癖にいまいち自分に自信が持てない竹本。美脚美乳の持ち主で知らないうちにモテまくっているのに無自覚、陶芸の才能は本物の山田さん。天衣無縫で天才肌、でもお金の亡者で悪人ではないけれどお馬鹿の森田。いかにも今っぽい器用さを持っているふうなのに、心も体も傷だらけの年上の未亡人に惚れこんでしまう真山。彼らを見守る大学教授の花本。今までこういう美術モノだったらまず「油絵」だったでしょう。それも「画壇のトンデモ裏話」とか「どろどろの師弟関係、男女関係」とかね。それをこういういわば「職人仕事」も含めた「モノを作るってことは結局自分の体動かすしかないんだよ――肉体労働なんだよ――。」というところにテーマを絞り込んだところが、いいんだよねえ。潔くて。
8巻では真山の終わりがなさそうだった片思いが実り(良かったね)、竹本はあがきにあがいた末に自分の道を見つけ出し、山田さんは真山への想いを断ち切って次の恋の予感。
あと問題は、はぐちゃんと森田の動向。この二人は才能という意味じゃ大物なだけにどうなるんでしょうかねえ、今後。この作品最初宝島社の「キューティコミック」(廃刊)、次に集英社「YOUNG YOU」、んで、今度は集英社「コーラス」に掲載誌が変わります。いい作品なので止めになることはないでしょうが、こんないい作品でも彷徨わなければならないほど出版て不景気なんでしょうかねえ。
母方の祖父が残したたくさんの椿ですが、名札が全部だめになっていて同定をやり直さなければなりません。意外なことにマジックインキは日光や雨風に大変弱いのです。1年もたてば白いプラスッチック製のプレートに書いたマジックインキの名前は消えてしまいます。一年草の草花の名前を書いておくには適していますが、何十年、何百年も寿命がある樹木の名前を書いておくにははなはだ不向きです。プラスッチック製のプレートもすぐ劣化して長持ちするものではないので、一番いいのは植物園なんかでやっているように木の札に耐水性のペンキで(できれば彫りをいれて)書いて立てておくことだそうです。花が咲かないとまず同定はできないので、今度のシーズンにでき得る限り確認して木札を立てていこうと思っています。
「越の粧い」は富山の民家で発見された種です。日本の椿の原種には「ヤブツバキ」と「ユキツバキ」があり、北陸地方が原産地の「ユキツバキ」系はこんな感じの千重-列弁咲きをします。代表的なのは「オトメツバキ」でしょうか。ぽってりして優しい感じの花形です。雪の中ではさぞかし映えるだろうなあ。淡桃色で中輪、11月-4月が花期です。葉は楕円、中形、波曲。樹形は立性で強いです。1970年の発表で、別名「霜月」。別名もいい名前だなあ。
黄色い菊の花のエントリーで、「菊花の契り」についてコメントしてくれたお客様の「大阪しまねこ」さんは、実は学生時代の同期なのです。
いつも親身になってくれたすごくいい人なのですが、 なんせ鹿児島のど田舎から関西に出てきて自分のことでいっぱいいっぱいだったお馬鹿ちゃんだったので、その恩に全く報いてません。しかも、大阪から鹿児島に帰ってきてばたばたしている間になかなか連絡もしてなかった無精者を、よくぞ見捨てずにいてくれたと思います。その間彼女も激動の人生でかなりハードなことがあったようなのですが、いつの間にか会社を立ち上げパワフルにやっている現在です。古い友人が元気なのはこれほど嬉しいものなのですね。
不思議なもので近所にいた時分は、好きな本とか趣味とかあまり深く話していなかったのに、こうしてお互いがブログでやり取りしていると「へええそうだったのかぁ、あれが好きなの、変なやつぅ(誉め言葉)。」と発見があり、「ネットとはこりゃすごいもんじゃのう。」と改めて思う昨今。そういえば「ネットやれば。」と奨めてくれた一人でした。ほんとうにありがとう。
表題の「菊花の契り」は上田秋成の「雨月物語」の中の1篇で、名目上は「互いの志を知る武士同士の命をかけた友情物語」ということになってますが、そこは上田秋成、なにせ「菊花」ですからねえ。もろホモホモ天国江戸時代を反映したお話になってます。主君の仇を討つために潜伏する男が、道中病に倒れて看病してもらった男と深い友情と兄弟の契りを結びます。「来年の菊の節句にお会いしましょう。」との約束を残して仇討ち男は旅立つのですが、待てど暮らせどやってこない。「今夜はもういらっしゃらないのか・・・」とがっかりしていたら真夜中にかの人がやってきた・・・。大喜びで心づくしの馳走と酒を振舞い友情を暖めあうが、翌朝にかの人の気配がふっと消える。実は約束のその日仇討ち男は拘束されていて、「このままでは約束を破ってしまう。せめて魂だけでも飛んでいきたい」と切腹して果てたのだ・・・と後に人づてに聞き看病男は大泣きしました―――。という話なのですが。いやあ、二人の男の会話がね、ネチコイのですよ。ベタベタしているのですよ。「ああ、いかにもその道の人たちの会話ね・・・。」って感じなんです。大げさで美意識全開。おもしろいんですけどね。
今日は白い菊が咲いていたので、なんとなく「ホモ話好きの友人」しまねこさんを思い出してしまいました。いや、しまねこさんとわたくしの間にはなんの「契り」もありませんよ。双方その方面に関してはいたってノーマル(のはず)。
奄美大島のサトイモ(とカライモ)をいただきました。むちゃくちゃ大きいです。緑のはうちのレモンです。大きさ全然違います。
産みたて卵5個と物々交換しました。原始的な取引ですが有益でした。
みなさまのお宅もそうではないかと思うのですが、秋になっていろんなものが実りを迎えて、あちらこちらの地方から畑からの成りものが「おすそ分け」や「交換」「お礼」「お歳暮」なんかの形で行ったり来たりしているのではないでしょうか?お互い値打ちを量りながら余ったものを欲しいものと取り替える。これぞ人類が歴史の曙から飽くことなく何万年と繰り返してきた、商い・資本主義の原点!いいですよねえ。わくわくしますです。
明日は間引き大根とイカと煮物にしようと思います。たいへんおいしいという噂なので楽しみです。
個体差はあるでしょうがイエネコの成猫でだいたい3-5kgの体重じゃないでしょうか。5kgといえば立派な漬物石ですよ。1kgの砂糖袋5袋ですよ。
きゃつらが漬物石や砂糖袋と違うのは、ちょっと寒い夜になると布団の中に潜り込んできて(ドリアンの場合は「入れろ」と要求して)、ちゃっかり人の腕を枕にして眠るところです。そりゃあもうたまったもんじゃありやせんぜ。
特にうちは2頭いるので、今からの季節真夜中にはっと目を覚ませば右肩にジョー(ヤス猫・おじさん・10歳)と、左肩にドリアン(アメリカンショートヘアーのハーフ・おじさん・12歳)が頭と前足をちゃっかり乗せて、王子様のごとき態度で惰眠をむさぼっとる。あまりの寝苦しさと肩こりに我慢ならずなんとかどかそうとするが、両肩に漬物石が乗ってればそりゃあ身動きままなりやせんや。だいたい猫の頭の中にはなにがはいっとるのか。「猫の額」というほど狭くて小さいもののたとえになるくせになんであんなに重いのか。それほどの脳みそがはいっているようにはどうしても思えん。寝返りもうつことかなわず、うんうんうんうん布団の中で身をよじりもがく季節がまたやってまいりましたのです。猫の頭ですらこうなのだから、人間の頭を腕枕してやれる人はほんと尊敬いたしますです。
もともと早寝早起きなのですが、ここ数年さらにその傾向が強くなり、必然的に夜に出かけることが少なくなりました。まず午前様になることはありません。その時間帯はあまりにも眠すぎて運転ができなくなってしまいます。それでも今日のように10時前後に帰ってくることはあります。
いつも書いているようにうち近辺は山の中なので真っ暗です。怖いほどです。(邪魔な光がないので星は綺麗に見えます)。そういうときに家の玄関灯が見えると本当に心強いです。たかだか100wの白熱灯が中で灯っているだけなのになあ。明治になって、それまで真の暗闇だった夜に電気の明かりが灯ったとき、夜の印象は劇的に変わったんだろうな。幽霊も妖怪もそりゃあいづらくなるわな。ギンギンギラギラなネオンサインまでは要求しないけれど、やっぱり電気の明かりは必要だなあ。
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