六月燈のためにお宮さんの掃除をしていたら、母方の親戚がぼそぼそと語りだしました。
―――――ここんお宮さんはな、昔ゃM岡の上にあったとよ。あそこん山の頂上は2反歩ほどは平らじゃっでや。M岡に登り方がきつかで(高さ100ぐらいはある)、下のほうに招請すっが、ちなってな。上から太鼓を転がして落として止まったところがここじゃったちよ。
びっくり!太鼓で決めた場所だったのか。ここ。
―――――そんでな、ここん神様は荒神さあでな。ちゃんときれいにせんとすぐはらける(怒る)たっち。白かもんが嫌いでな。白かものを着て参るなち、ばあさんたちがいうちょったど。
うひゃあああ!祟り神ですかい。思いも寄らぬことでした。まさか、この親戚からこんな土俗・民俗なお話を聞くことになろうとは。21世紀になって久しいですが、柳田國男的世界はまだまだ日本のそこかしこにぽかっと穴を開けているようです。しかしとどめの話はこうだった。
――――いっそM岡の上に古かままであったら、まだありがたみがあったかも知れん。お参りに来る衆が県下から来たかもよ。
ふわっはっはっは!うんうん、ソロバンはじいてますね。いつもの親戚でした。よしよし。確かにM岡の頂上で古いままだったらちょっとありがたかったかも。それを維持するってたいへんだけど。
名所旧跡を維持してるところはえらいよなあ。
墓参りに行く途中で、ラジオにDr.コパが出ていました。「春の彼岸の中日に、ついているかついていないかでその年の運気がわかる」のだそうです。
おかげさまで今年はいい年のようです。日置の実家のお仏壇にもお花をあげて、ご先祖さまに感謝を・・・・・って、これは本来の仏教に全くない発想なんだけれどね。(仏教は『一切が空』が基本だから、ご先祖も子孫もクソもない。そういう『愛』という名の執着をこそ、止めろという教え)。
日本古来の祖霊崇拝と、儒教や道教の礼と、念仏仏教が江戸時代に微妙~なサジ加減でミックスされたのが現在の葬式仏教。だからって「なにもかもちゃんぽんにしおって、けしからん!節操のかけらもない!」などと堅苦しいことをいわないところがヤマトゴコロのいいところ。いいじゃん。それやって気が休まるなら。高度成長期育ちのわたくしでも、盆とか彼岸とかお命日とかに墓参りしとかないと、何かあったときに「あああ、あんとき墓参りしとかなかったから!!バチが。」とかついうっかり思っちゃうんだよね。どんな形であれ、様式や美学があることはいいことだなあと最近とみに思うのでありましたよ。
鳥居と小さなお堂があるだけ、社務所もおみくじもないお宮さんですが、かなり大きい杉の木立があり、県でも1,2を争う大きさというムクノキもあります。ここは確かに鎮守の杜なのです。
特定の宗教の信者ではありませんが(葬式は西本願寺)、「八百万の神」はいると思っているので、毎朝のモモの散歩の途中に必ず寄って拍手を打って参拝します。やっぱ、できるだけツキが廻ってきてほしいもんな。
というより「柏手を打つ」という行為を「美しい」と感じているのですよ。朝早いお宮さんは静かで、「パン!パン!」という音が木立に良く響きのです。その響きが一種独特の清浄さを持っているように自分の中の「やまとごころ」が感じてしまうのですな。音が響く瞬間何もかもを忘れてしまうのです。一瞬でリセットされる心。薬もカウンセラーもいらんコストゼロの手法が、たまらん性におうとるのです。
・・・・・、と、実は最近境内の杉の落ち葉が掃き清められ、箒目が立っていることが多かったのです。7時には行くので、「誰がやっているんだろう・・・?」と謎だったのですが、今日30分早めに行ったらご近所のご婦人が帽子にマスクと割烹着で、持参の箒と熊手で黙々と掃いてらっしゃいました。――――――
「おはようございます」と挨拶すると照れたように会釈され、かき集めた杉の葉をお堂の後ろに固めてすぐ傍のおうちに入っていかれました。
おおお、美しい―――!!
ちゅうか、杉の葉が気になっとったんなら自分でやっとけや。反省。
太陰暦支持派なので、この節分~立春の2日間は大事にしています。とにかく豆まき!そして恵方巻!
はじめて関西で節分を迎えたとき、大阪女の友人がいきなり太巻きを取り出して、あらぬほうを向いてもくもくもくもくものも言わずに食べだしたときにゃあ、そりゃまあびっくりしたものです。何年か過ごすうちに、「えーーーと、今年の恵方は・・・」と二月の声を聞くと同時に確認するようになり、そのうち自分で巻き寿司を作るようになって今に至ります。やっぱり、食べ物の絡む行事はなあ、大事なんですよ。たとえもともとが浪速の寿司屋の陰謀だとしても。あれよあれよと言う間に全国的に有名になりましたな。
今年の恵方は南南東。玄関で豆をまいて、キュウリと卵焼きとカツオの佃煮を巻いた巻き寿司を、南南東を向いてものも言わずに丸かぶりいたしました。これで今年はますます安泰。
かつおでとったダシで炊いて、塩味をつけて、火からおろす直前にみじんに切った七草を散らして、おろしショウガとおろし大根まで添えた特製です。ほんのりナズナやハコベなんかの苦味がして、お腹の底から暖まります。さあ、これで今年も無病息災じゃ。もう7日たちましたがみなさまにとってもよい年でありますように。
7歳のとき、今日のこの日に晴れ着を着て、お盆を持ってご近所を廻って七草粥とお年玉(!)(うれしかったなあ!)を、もらった覚えがあります。いまだに鮮明に覚えている印象的な行事でした。
今はどうなっているんでしょうか?だいたい七草そのものがそこらに生えてなくて贅沢品。なかなか難しいでしょうね。
春の七草で、「七草粥」の主役です。
ぐうたらぐうたらしているうちに、なんと今日はもう三日。砂時計の砂が落ちていくように、時の流れゆくことよ。だからといって「ばりばりやるぞー!」とか思うわけでもなく、「1月7日がくるなあ。七草粥七草粥」と考えることは食い物のことです。自然、モモ散歩や畑散策では「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」を探してしまうわけです。
南国鹿児島では、もうナズナもハコベもゴギョウ(ハハコグサ)もホトケノザも出ています。スズナ(大根)もスズシロ(蕪)もうちにはあるし。なんとかなるじゃ~ん。
ナズナは特に生活力と繁殖力旺盛な草で、どこにでも生えますね~。「ぺんぺん草も生えねえ」のが荒廃の極致を表現する言葉となるぐらいですから。そういうたくましいのが大好きなんですよ。「ぺんぺん草」という別名もナイスじゃないですか。姿も意外とかわいいし。江戸時代には七草粥だけでなく、吸い物、和え物、おひたしにも利用したそうで。そうなんだよね。結構食べてもおいしいんだよね。
あと乾燥した全草の煎じ汁が洗眼用のお薬になるそうな。これもド近眼の身としては聞き捨てならんこと。
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