椿屋敷のお客様

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2005年9月

2005年9月15日 (木)

036 木戸口に栗が落ちておりました。子供のころ「子供会」で、今ごろ栗と萩とススキを集めて束にし、それを部落(鹿児島じゃこの言葉に差別的意味はない)内に配って、「十五夜」行事に使うカンパ金を集めておりましたな。十五夜の夜、子供たちが集まって、小学校のグランドの土俵で相撲を取ったり(カンパは相撲の景品のノートや鉛筆になった)、肝試しをしたり、あの頃は「なんか不思議な行事じゃっどねえー」と子供心に思っておったことですよ。

大人になって「十五夜に相撲」というのは、われわれのご先祖さあが「隼人」と呼ばれていた遠い遠い大昔からの伝統行事であったことを知りました。もちろん時代時代にそって変化してきたらしいですけど。たまげましたね。今どうなってるんでしょうか?

チャドクガ注意報2

鹿児島市内でチャドクガが発生しております。チャドクガは椿、山茶花、茶など、ツバキ科の木につく毛虫ですが、負けるとひどい目にあいますぞー。かなり毒性が強いので、風に乗った毛に触れるだけで体一面にいたがゆい斑点がでてきます。ツバキ科の近くに寄らんほうが無難でしょう。もし、お庭の木にこれがついていたら、家庭用殺虫剤(フマキラーだのキンチョールだの)を吹き付ければ簡単に駆除できますので、早めに撒かれることをおすすめします。ご家族に被害者がでたり、木が丸坊主になったりする前に(まじで食い尽くされます。恐ろしいです)。Nec_0002

2005年9月14日 (水)

竹の花

032 竹山の竹は、あれ全部で一つの生命体なんだそうである。ひゃあ。ぜーんぶが地下茎で繋がっているのですと。だから、何十年か一度竹の花が咲くとき、全山いっせいに咲く。そして、いっせいに枯れる。(まだそれを見たことないけど)。昔から竹の花は凶兆といわれておりますな。いわく、凶作になる、天変地異が起こる・・・etc.もっとも、竹はイネ科なので、その花は米の仲間、鼠にはいい餌らしく、確実に大発生するらしい。山の竹の花を食べ尽くした鼠が里に大挙して降りてくる・・・。充分まがまがしいなあ。

いや、うちの裏山の竹に花が咲いたというわけじゃござんせん。ただね、今度の総選挙、「自民圧勝」、「『全山いっせいに咲いた竹の花』みたいだな」と思いやしてね。「一本一本別々かと思ってたら、いきなり全山花盛りになりました。」という。政治を語る気はさらさらございやせんが(分際じゃありやせんや)、わけがわからんうちに何かが一時的に全て集中する状況は、生き物としてかなりやばい(生命が尽きる)状況であることが多いと思いやすがね。

吉備津の釜

034 秋草の意匠は日本画や工芸品、着物の柄、茶碗の柄、とにかくありとあらゆるところにございますなあ。われわれ日本人の潜在意識に刷り込まれているといっても過言ではありますまい。ススキやメヒシバ、オヒシバ、小菊、萩、などなどの秋の野草が風に揺れる様を、細い線で描いている寂しい意匠ですけどね。だから、葬式関係のグッズには欠かせませんな。

江戸時代からそういう美意識はあったらしくて、幽霊絵のバックの、廃屋とか破れすだれとか破れ蚊帳にあしらって、凄惨な雰囲気を醸し出しております。怖いよー。お盆の暑い真っ盛りより今時分のほうが怖い。夏に栄えた草薮に衰えが目立ち、日の暮れるのが早くなる時期。思いもよらず遅くなってしまった誰そ彼時、廃屋の枯れかけた背の高い薮の向こうに見てはならないものがのそりと立っていそうな気がいたします・・・。

そういう「秋草のむこうの恐ろしさ」を刷り込んでくれたのが、上田秋成の「雨月物語」で、とくにその中の「吉備津の釜」であります。怖かったなあー。話そのものは岡山の吉備津神社の神主の娘の磯良が、遊び人と結婚してしまい、案の定夫は他の女と逃げ、恨みのままに死んだ磯良の亡霊が女と夫を憑り殺すというありがちな筋なのですが。なんかもう雰囲気が、じくじくじくじくしてて。しょっぱな結婚の吉凶を吉備津神社の釜で占うんだけど、「吉ならば釜はをんをんと吠え」「凶ならば釜は黙して鳴らず」で、湯気はもうもう立てどシーンとして鳴らず。その「シーン」とした沈黙がやなのよ。他の女と逃げた夫だったけれど、逃げた先であっという間に女は熱病で死ぬ。嘆いてその女を葬った墓参りをするんだけれど、それが秋草真っ盛りのシーズン。日が傾いて揺れる秋草の中で、他の墓に墓参している下女を見かけ、悪い癖でナンパする。誘われるままその女の家に行き、「病に伏している」女主人と対面。秋草模様の屏風の陰からのそりと現れたのは、なんと捨てた妻磯良!美しい顔の頬はこけ、顔は青白く、髪は乱れ、恨みにゆがむ。あまりの恐ろしさに気を失って、気が付けばそこは野中の秋草茂る廃屋の中。

走り逃げて徳の高いお坊様に泣き付き、なんとか磯良の恨みをやり過ごしたいと策略するのでありますが、最後の最後がまた凄まじかったです。結局憑り殺されたらしいのだけど、その「痕跡」だけが残ってるの。秋の清澄な月明かりの元、男の部屋の入り口に吹き出た血痕、そして竹の垣根に男の髻(つまりちょんまげ)だけが引っかかって、秋風にゆらゆらと揺れている・・・。ひー――――コワー―。

今時分の誰そ彼時、秋草の野は恐ろしいです。とても美しいと思うのに。いや美しいからこそですか・・・。

2005年9月13日 (火)

葛の花

031 二日酔いの薬ですと。干してせんじて飲めばよいらしい。わたしは酒をまったく嗜まないので縁がございませんが。(酒飲みたちからは『人生の半分を捨てとる』といわれます。くすん。)

あの凶暴なほどに繁茂する葛にこんな可憐な(かつ二日酔いの薬になる)花が咲く。わが身もかくありたきものよ。

彼岸花

Nec_0191彼岸花が咲きはじめている。もうじき秋の彼岸かあ。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、今年の夏も暑かったなあ。

美しく赤い彼岸花は、案の定毒があるのである。アルカロイドのリコリンというちょっとやばい毒である。「絶対に口にしてはいけません」と子供のころ注意された方もあるのでは?

おなごに生まれてきたからには、「美しいけれど毒がある」とか「美しいけれどトゲがある」とか、そういう形容詞で表現されてみたいものじゃのう。このブログも当初の目論みは「抑えても抑えてもあふれだしてくる妖しいお色気を醸し出す」じゃったんじゃがのう。どこで間違えたかのう・・・おかしいのう・・・。

彼岸花が土手とか田んぼや畑の回りに生えているのは、もともとモグラよけとして植えられていたからだという。つまり彼岸花の鱗茎に毒があるので、モグラが近寄らず土手にトンネルを掘らない。よって土手が長持ちする、という寸法である。宿根草なので半永久的に生えるし手間要らず。昔の人の知恵というのは、ほんとうにすごい。

こんな能書きを垂れとるから色気がないのだが・・・。ひょっとして毒だけはある? モグラも近寄らん?

追記:「雲の雫」さんとこでも彼岸花について書いてらっしゃったので、http://rain.synapse-blog.jp/まで。

2005年9月12日 (月)

犯人は誰じゃったと?

Nec_0188Nec_0189 Nec_0190 いまだ台風の後始末をしている。猫用出入り口の綿マットも洗濯して日に当ててよく乾かした。台風雨風まっさかりに、このマットの上でウンコをしたやつがおる。いやな予感はしとった。「ほれ、オシッコウンコしたかったら今のうちに外でしといで・・・」と優しく窓を開けてやったのに。ドリアン(アメリカンショートヘアのハーフ・おじさん・11歳)もジョー(茶トラ猫・おじさん・10歳)も「わああ、すごい雨ですねえ、風ですねえ。」とちょっと首を伸ばしただけで引っ込みよった。「こりゃまずい」と室内猫用トイレを準備していた矢先であった。犯人はどっちじゃったとか?!あんたらいいかげんおじさんだけど、まだ足腰は達者なんだから子猫の真似はせんとってくれ。―――と、怒ってもなア。ご存知のように現行犯逮捕せねば後から叱っても無駄なのである。この場合、悪いのは台風をいいことに猫トイレの準備もせずぐうたらしとったわたくしなのである。はにゃあああ。

2005年9月11日 (日)

2個/日の卵

Nec_0187 4羽の地鶏の奥様方は毎日2個の卵をお産みになります。はたして、まだ2羽しか産卵可能に成熟していないのか、それとも巧妙に交代でサボタージュをなさっているのか、謎でございます。

後始末

Nec_0186 ・・・・・・後始末しなくちゃ・・・台風の後始末・・・・・マンガに逃避しとる場合じゃないんだけど・・・・もうすぐ秋の彼岸で、植えるもんがいっぱいあるんだけど・・・・・畑倒れまくりだし・・・・(ボソボソ)

「まだ、後始末しとらんのかよ?」そうなんす。いや、今日こそは気合をいるっぞよ。合間に選挙いくけど。

2005年9月10日 (土)

ピアノの森

051「 今注目のピアニストが主人公のマンガ」となると、前述の「のだめカンタービレ」とは別に「ピアノの森」(一色まこと著・既刊10巻・講談社)を無視できんのですわ。

「のだめカンタービレ」が”女性誌掲載にもかかわらず青年誌テイストが濃い”ピアニストものなら、「ピアノの森」は”青年誌掲載にもかかわらず女性誌テイストが濃いのである。

だいたい主人公のカイが人格者である。ほとんど聖者に近い。一応出生が「森の端」という娼婦街で、娼婦を生業とする未婚の母から生まれたことになっているが、すでにこの母が天使。ある意味「聖母マリア」。母と住むバーのそばの森に捨てられたグランドピアノがあって、物心つく前からこれをおもちゃにして育ち、生来の才能が開花したという設定。話は彼の小学生時代から始まっていて、そこに血統書つきのピアニストの卵雨宮(父親が現役ピアニスト・いいやつ)が転校生としてやってくる。天才ピアニストだったが事故で挫折した音楽教師阿字野(いいひと)もからみ、あくまで自分の天才性に無自覚のカイを、寄ってたかって目覚めさせようとする・・・・・。「こういう設定どっかで見たよなー」と、はたと思いついたのが「エースをねらえ」。

主人公=無自覚の天才=岡ひろみ=カイ

ライバル=血統書つき秀才=お蝶夫人=雨宮

それに挫折した元天才のコーチ=宗方コーチ=阿字野

                      〈阿字野はまだ死病に取り付かれてる様子はないが)

・・・・・ね?ぴったりじゃっどが。

このパターン比較は「エースをねらえ」を「ガラスの仮面」に代えて

北島マヤ―姫川亜弓―月影先生にしても可。

つまり「ピアノの森」は一昔前のど根性少女マンガの黄金パターンを見事に踏襲しとる訳よ。無自覚の天才に血統書つきが「どんなに血のにじむような努力をしてもぜってえ勝てねえ。」ところなんかもそのまま。「女性誌テイスト濃いなあ」と感じて当然である。でてくるキャラのほとんどが善意の人だし。無自覚の天才に何の見返りも要求せずに、その才能を育てようとしてくれる。それもそのまま。

しかし決定的に違うところがひとつだけ。それは温度。ど根性少女マンガは「そこまで熱くなくても・・・アチチチやけどするわい。」というぐらい熱血だったが、「ピアノの森」はぬるい。けなしているのではない。それが心地いいのである。賢明なお客様諸氏にはすでにおわかりであろうが、「ピアノの森」は本来のわたしの好みの範疇ではない。しかし、このぬるま湯のような「長く浸かってても心臓に負担かかりませんよ」というような毒気のなさがたまらん後を引くのでありますよ。

「ダントツとはいえないが無視できない。」ちょっと不思議な位置付けでありますが・・・。それが作者一色まこと氏の狙いだったりして。んで、見事にはまってたりして。