椿屋敷のお客様

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2006年3月

2006年3月26日 (日)

築山のヒトッバ

Nec_0022_10 築山にもともとはすごくカッコよく作ってあったはずのヒトッバ(イヌマキ)の大木がやんかぶった(ボーボーとなった)まま立っています。「手入れしなくちゃ~手入れしなくちゃ~」と思いながら、ハシゴに登るのがたいへんなのでついつい億劫になったままどんどんやんかぶっていきます。

ヒトッバ(イヌマキ)は鹿児島では松代わりに庭園に良く使います。ちゅうか鹿児島の獰猛な夏の緑に対峙できるのは、弱いところのある松より断然ヒトッバのほうでしょう。磯の仙巌園や知覧の武家屋敷で見事に作ってあるヒトッバをごらんになったことのある方は多いはず。クスやクロガネモチとならんで鹿児島にふさわしい好きな木なんですよ。というならちゃんと手入れしたれや!ちゅうの。

2006年3月25日 (土)

マムシグサの花

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 マムシグサの花が咲いています。

「マムシグサ」とはまた禍禍しい名前ですが、実際葉をくるむ苞にマムシの模様にそっくりな模様があるし、花の形は蛇が鎌首をもたげたような形です。マムシがいそうな山の中に生えるし(うちの庭先だっちゅうの。あ、念のためマムシはいません)、山の中でひょっこりこの草をみかけると「ギョッ」とします。名前負けしない充分に禍禍しい容姿です。

これで毒がなかったら、「あんなに毒々しそうな姿をしてるけれど実は無害なのよ」と言えるのですが、どっこい根っこにシュウ酸カルシウムを含んでいるので立派な毒。食べるとシュウ酸カルシウムの結晶が粘膜に刺さってたいへんなことに。サトイモに似ているらしいですが決して食べてはいけません。

でもここまで禍禍しく風変わりな姿だとかえっておもしろいと思ってるんですがね。絵になるよ。

今朝の子ヤギちゃん

Nec_0010_10 Nec_0011_9子ヤギどんどん大きくなります。一年でお母さんと同じ大きさになるのだから、そらどんどん大きくならないと間に合わないでしょう。大きくなると同時に運動量が半端じゃなくなってきて、わたくしの反射神経ではとてもとても追いつきません。よく「孫をあやして追いかけていたら、自分が転んで骨折した。」というお話を聞きますが、今そのお気持ちがわかりました。お母さんのめーさんは、近づくとお乳の匂いをぷんぷんさせています。そろそろ絞りどきが近づいているようです。 Nec_0012_10 Nec_0013_12 Nec_0014_10 Nec_0015_10 Nec_0019_8 Nec_0018_6 Nec_0017_11 Nec_0016_9

2006年3月24日 (金)

BASARA

Nec_0003_11大好きな漫画家の西原理恵子氏が出るというので、珍しくTVをつけてNHKの「スタジオパーク」を見てしまいました。西原氏は歯に衣着せぬ毒舌で有名、「大丈夫かよNHK」と思いましたが、 案の定いかにもお固そうな女子アナとまったく息があっていませんでした。ははははは。その中で西原氏が「ジェンダーフリーって嫌いなんですよ。女なら上手な泣き真似も愛想笑いも必要でしょ?そのほうが男に話するには、はるかに話が早いもの。30になっても40になってもそれをマスターしてない人いるけどね。」と、「うううむ!まったくだ!!」と膝を叩くような名言を吐いてくれましたが、まさしくその女子アナは「40になってもマスターしなさそうな」タイプ。笑わせていただきましたよ。

そのあとで日置の実家の倉庫のマンガを整理していたら「BASARA」(全27巻・田村由美著・小学館)がでてきました。1990年代の少女マンガでヒットしたこれはジェンダー(性的役割)についてかなり本質的なところをついていた作品でした。

・・・・・核戦争で破壊された未来の日本。王国の圧政に反逆する「運命の子供」それがタタラ。でも、実はタタラは男女の双子で兄がタタラで物語の最初に殺され、妹の更紗が兄の身代わりとなって、すべてを背負って革命軍を指揮する・・・・・というお話。ねー――。もうこれ基本設定がジェンダーを語るためにあるようなもんよ。

少女マンガ歴史もののお約束「ロミオとジュリエット的恋愛」もきちんと盛り込まれ、兄のタタラや家族を殺したカタキの赤の王こと朱理と、身分を隠したまま恋に落ち、日本全国を戦争したり恋愛したりしながら旅をするというドハデな設定なんでおます。

登場人物が主だったのでも50人を超える長編なので、ストーリーを説明はしないけれど、とにかく主人公の更紗がことあるごとに「あたしは女の子なのに・・・・・女の子なのに・・・・・」と悩みながら戦争しております。戦争している間は生理止まってるのに、朱理と会うと始まる。とてつもなく重い義務と女の生理の間で揺れ動く更紗。

この作品の1巻が1991年発行、最終27巻が2000年発行。更紗の悩みは、まさしく1990年代の働く女達が持っていた悩みだよな―――。と読み返していてつくづく思いましたね。

「男女雇用均等法」以降、女達は「なんであたしこんなに働かなきゃなんないんだろ?」と思いながら、徹夜したり出張したり責任とったりばりばり働かされとるわけですよ。生理休暇なんか言い出せないことなんてざらだと思うな。恋をすることだってよっぽど器用じゃなきゃ並行してできないよ。会社づとめしながら子供作るのも勇気いるし。

まじめであればあるほど苦しんだと思うなあ。ほんとはね、西原氏がいうように「あたし、できなあい」とか「お願い、あなただけがたよりなの・・・」とか涙の一つも流して上目遣いにハートマークを飛ばして男を使う技を身につけるべきなんだわ。そのほうがほんとに話は早いんだわ。(とかいう西原氏こそ別れた旦那を養っていたことは有名な話)。

「BASARA」の更紗、今読み返すと「あんたがんばりすぎ。ちった肩の力抜けや。」と思います。誰か男にさせたれや。革命とか戦争なんか。おなごがせんでもよかろそうなもんじゃろが。でも、それをさせかねないのが、「男女平等の思想」なんだよな。1990年代以降、現実の日本の社会もそうなっていると思います。だからわたくしもジェンダーフリーは嫌いです。

物語の展開はやはり早いし、おもしろくてうまいんだけどなあ。「独立戦争に勝って、好きな男手に入れて、革命の後は男の間に子供(これも男女の双子)作って世界中を貿易しながら旅する・・・」大団円なんだけど、「そげな、はめつけて気張らんでもよかろがよ。」と今、久々に読み返して思ってしまいましたね。

椿「黒椿」

Nec_0001_12 椿「黒椿」が咲きました。

すごくシブい花です。ちょっと他にないような暗紅色。青の色素が混じっているようです。葉の色にも暗紫色が混じっています。松笠形の抱え咲き、重ねの薄い八重、光沢弁で小~中輪。花期は4~5月。樹形は横張り性で伸びが遅い。

この、現代的なシンプルさと渋さを兼ね備えたデザインの花が、1829年の「草木錦葉集」には載っている、ってところが江戸の侮れないところです。センスがいいよなあ。「ブラック・プリンス(黒皇子)」とかいう英名まで持っているのです。そりゃあ、当時のヨオロッパにしてみりゃあ、このセンスは驚きだったろうよ。なんせ帝国主義花盛り、建物も家具も織物も陶器も庭も植物もありとあらゆるものがゴテゴテのコテコテばかり。お茶漬けと漬物センスのあっさり味が欲しくなって当たり前。

「ブラック・プリンス」か。いいねえ。

2006年3月23日 (木)

ブルーベリーの花

009 ブルーベリーの花が咲いています。

ブルーベリーは2種類以上の品種を植えておいたほうが実付がいいので、3品種を植えています。そろそろ今年あたりは実が成るんじゃないかと思うのです。

なにせド近眼で目が悪いので、ブルーベリーのジャムは必須。採れたての実でヨーグルト(今年はヤギ乳のヨーグルト)のトッピングにしたり、チーズケーキに入れたり、ああ、考えるだけでよだれが出そう。

山椒の芽

Nec_0025_12 春の味覚のひとつ山椒の芽が萌えています。

木に近づくだけで、あの独特の香りがします。夕べの吸い物と茶碗蒸に使いました。はあああ、いい~香りだ。

2006年3月22日 (水)

今の子ヤギちゃん

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 寝ているかチョロチョロするかなので、とてもとてもまともな写真が撮れません。

でも、信じられないぐらいかわいいです。(ヤギバカ・・・)

ディズニーの「バンビ」がそのまま真っ白になったようなもんです。どうぞ、お時間があえば直接見にいらしてください。

椿「孔雀椿」

Nec_0015_8 ついに咲きました。「孔雀」の名を持つ「孔雀椿」です。派手です。

祖父が大好きだったので、東南の築山の一番メインの木になっています。紅地に白斑の八重、蓮華性、中~大輪。葉は披針、中形。樹形は枝垂れ性。愛知県の三河産です。

なんでも「孔雀」の名がつくものは派手です。本物の鳥の孔雀があれだけ派手ですからね―――。いかにも「インド原産」ですよね―――。あんな派手な模様がついたキンキラキンの1m以上にも及ぼうという尾羽を、発情期の雄は惜しげもなく広げて、その上ダンスまでして見せるそうな。それを見た雌は、「一番派手できれいで大きい目玉模様の数が多い尾羽を持つ雄」を選ぶそうな。まったく。あの目玉模様、人間のわたしらが見てても目が廻りそう。そりゃあ発情期の雌が思わず幻惑されて、ボーっとなるのもむべなるかな。それでも「一番のやつ」をえらぼうというのだから、どんな種の雌も貪欲であることよのう。

2006年3月21日 (火)

春の彼岸

Nec_0016_8 今日は春の彼岸のお中日です。早いものです。

墓参りに行く途中で、ラジオにDr.コパが出ていました。「春の彼岸の中日に、ついているかついていないかでその年の運気がわかる」のだそうです。

おかげさまで今年はいい年のようです。日置の実家のお仏壇にもお花をあげて、ご先祖さまに感謝を・・・・・って、これは本来の仏教に全くない発想なんだけれどね。(仏教は『一切が空』が基本だから、ご先祖も子孫もクソもない。そういう『愛』という名の執着をこそ、止めろという教え)。

日本古来の祖霊崇拝と、儒教や道教の礼と、念仏仏教が江戸時代に微妙~なサジ加減でミックスされたのが現在の葬式仏教。だからって「なにもかもちゃんぽんにしおって、けしからん!節操のかけらもない!」などと堅苦しいことをいわないところがヤマトゴコロのいいところ。いいじゃん。それやって気が休まるなら。高度成長期育ちのわたくしでも、盆とか彼岸とかお命日とかに墓参りしとかないと、何かあったときに「あああ、あんとき墓参りしとかなかったから!!バチが。」とかついうっかり思っちゃうんだよね。どんな形であれ、様式や美学があることはいいことだなあと最近とみに思うのでありましたよ。