―――――欲張りばあさんだかじいさんだかが、何かのきっかけで思いもよらない神か仏かの恵みをもたらされる。最初はささやかな恵みだったけれどだんだん欲の皮が突っ張ってきて「もっともっと」と要求が大きくなっていく。極限まで要求した果てに全てを失くして元も子も無くなる。―――――
典型例が「金の卵を産む鶏」ですね。一日一個づつ金の卵を産む鶏で満足しときゃいいものを「一日一個づつじゃ足りない」と鶏を殺してかっさばいてしまった、と。もちろん鶏の内臓はただの鶏の内臓で金の塊が出てくるわけでもなく。欲に負けて世にも貴重な金の卵を産む鶏を自分の手で殺してしまっただけという大失策。愚かなことですが、人間油断してるとついついやっちゃうんですよね。「まだるっこしい!今、今すぐ全ての結果が欲しい!!」
これは本当に失敗の元です。こういう焦りに取り付かれると思っていた未来が手に入らないばかりか今持っているものも全て失くします。
最近まじかでそういう例を見てしまって。
改めて思いました。「『商い』は『飽きない』。大振りせず短く持ってこつこつ当てる。」真理です。
ノビルもニンニクもそうなのですがユリ科なのです。この連中がテッポウユリやカノコユリや果てはカサブランカなんかと一緒の仲間と聞いても一瞬耳を疑いますが、よくよく見れば納得なのであります。
ごらんのようにノビルの花はたいへん小さいですが、ひとつひとつの花を見ればまさしく小型のユリの形。そして根。ユリの根も百合根として食用。あの根を小さくしたらまさしくニンニクやノビルの根でしょう。やっぱり仲間なのね。
植物にはこういうことはよくあります。大きさを変えたり、花や葉の比率を変えたりのデザインバージョンで「実は仲間だった」はよくある話。キク科やバラ科のバージョンの多さは驚くばかり。
でも、人間社会でもそれはいえるのかも。見た目や噂じゃまったく接点が無いはずが「実は仲間でした。」
あ、よくある話だ。
すなわちヒドラのことです。ヒドラはギリシア神話のヘラクレスの冒険に出てくるやつで、沼地に住む頭が9つに分かれた水蛇でございます(この手の化け物あちこちの神話にもでてくるなあ。ヤマタノオロチの仲間じゃん)。ひとつの頭をつぶしてもすぐまた次の頭が生えてきてきりが無いので、ヘラクレスは火のついた松明を手に持って頭を切り落とすそばから焼いていったら、さしものヒドラも退治されてしまったという。確か強烈な毒も持っていてヘラクレスの最後はこのヒドラの毒が染みこんだ衣装を着せられたことによるんじゃなかったっけか?
アジサイの花はいくつもの小さい花(正確にはガク)が塊になってできているので、ヒドラに例えられたのでしょうね。可憐な花をそんな強烈な怪物に例えるセンスは理解しがたいような、でもちょっと納得したいような。
梅雨入りしてアジサイもほころんできています。鶏小屋のそばのアジサイはガクアジサイで、鮮烈なブルーです。かわいいけれど見ようによってはヒドラか。
鹿児島地方は梅雨入りいたしました。今日は朝から晩まで雨でございます。
よく言われることですが、この雨こそが日本のお米を作るんであります。日本独特の風景「水を張ったいちめんの田んぼ」を成立させるには、やはりどこかでまとまった雨が降らなければ。米というのは単位面積あたりの収量と栄養素が最も高い穀物なのです。それを育てるのが日本の温帯モンスーンの夏。米があれば何とかなる。ありがたいことです。おいしいお米のためにも多少のうっとおしさは我慢することにいたしましょう。
最近集中豪雨が多いのはちょっと困るけどな。今一番集中豪雨で危ないのは都市。「ヒートアイランド現象+コンクリート側溝の流量限度」で流れる先の無い大量の雨水による都市型洪水が問題になってますね。都市に住むみなさま、大雨が降ってきたら地下街にはご用心。
最近のコメント