昔昔、お子様だった頃、鶏頭や千日紅なんかの夏の地味~な花を「なんだこりゃ?」と思っておったですよ。「千日紅はしょぼいし、鶏頭なんか気持ち悪いよ。何でこんなもの植えてるんだろ?」と。
今にして思えばこれは先人の知恵で大正解なのでありました。
要するに墓花なのです。「全国で一番墓に花を供える県」鹿児島は、これまた「全国で二番目に南の県」なのです。夏の墓花は供えてから半日と持ちません。半端じゃない太陽の照りであっという間に花壷の水は乾き、花はぐんにゃりとしおれます。夏場はお高い菊とか、百合とか、とてもじゃないけど使えないですよ。もったいない。
かといって葉の緑だけだとどうにも淋しい。赤みが欲しい。こういうときに安価でうちで簡単に栽培できてしかも乾燥に強い花が大活躍するわけです。
たとえば千日紅。鶏頭、羽鶏頭。コーンフラワー。色唐辛子。いずれ劣らぬ地味な花ですが照りつける太陽の下の墓に供えると、それらの赤みがたいへん映えます。「どんなものにも活躍する現場はある」というわけです。要は「適材適所」。自分で墓の花を供えるようになって初めて納得しました。先人の知恵恐るべし。
「たおやかにひっそりと」と形容をつけようかと思いましたが、「ひっそりと」というほど目立たない花ではないですね。でかいし、なにより香り。ご存知のように百合の香りはたいへん自己主張が強いです。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と本邦でも例えられ、キリスト教圏では聖母マリアの象徴の花である百合。「清らかな美しさ」の権化のように言われておるわけですがねえ。
あの香り、そしてたいへん目立つ花粉。あの花粉は理科の時間に「花粉管が伸びて雌しべにたどり着くまでの観察」をした覚えがあります。植物とはいえなんだかむちゃくちゃエロティックな現象だったなあ。「清らか」ねえ。
あ、そういやマリアは「処女懐胎」なんかするつわものだった。ひょっとしたら「究極のエロティシズム」の隠語として百合を例えているのかも知れません。
鹿児島は生花の使用量№1の県なのです。「おっしゃれーに玄関や応接間にアレンジメントなさってのかしら?」さにあらず。
圧倒的に仏壇と墓のお供え用なのです。一ヶ月の生花費用が1所帯につき¥5000を超えるというから凄いですぞ。
ある程度の年齢の行った薩摩人にとって「墓参り」というのは一種のイベント。鹿児島市郊外でも街外れの山の斜面に大規模な墓地がいくつもあり、盆に彼岸に正月に、命日に月命日に年忌に、そうじゃなくても何かあったらとにかく墓参。どこの家のお墓もきらきらしく生花が絶えず、うっかりうちのお墓の花が枯れていたらあ~らたいへん。うちのお墓だけがまるで無縁仏のよう。なのでたいがいの墓地に墓参用のお花屋さんがあって、箒・バケツ・柄杓の墓参セットは貸し出してくれますし、月に何千円かの手数料で替わりに墓参とお掃除もしてくれます。
生花の値段はお高いので、庭や畑を持つお宅は菊や鶏頭やアスターなんかの墓花、仏花を自分で作っていることが多いです。グラジオラスもそういう目的で作ってらっしゃるお宅は多いはず。墓に供えるとハデですもんね~~!
ただ、グラジオラスは蜜があって蟻が来るので、仏壇に飾るのは止めたほうがいいです。どこからともなく蟻がやってきて、仏壇まで蟻の行列を作ってくれたお宅を何軒も見ました。
すなわちヒドラのことです。ヒドラはギリシア神話のヘラクレスの冒険に出てくるやつで、沼地に住む頭が9つに分かれた水蛇でございます(この手の化け物あちこちの神話にもでてくるなあ。ヤマタノオロチの仲間じゃん)。ひとつの頭をつぶしてもすぐまた次の頭が生えてきてきりが無いので、ヘラクレスは火のついた松明を手に持って頭を切り落とすそばから焼いていったら、さしものヒドラも退治されてしまったという。確か強烈な毒も持っていてヘラクレスの最後はこのヒドラの毒が染みこんだ衣装を着せられたことによるんじゃなかったっけか?
アジサイの花はいくつもの小さい花(正確にはガク)が塊になってできているので、ヒドラに例えられたのでしょうね。可憐な花をそんな強烈な怪物に例えるセンスは理解しがたいような、でもちょっと納得したいような。
梅雨入りしてアジサイもほころんできています。鶏小屋のそばのアジサイはガクアジサイで、鮮烈なブルーです。かわいいけれど見ようによってはヒドラか。
おフランスはマリーアントワネットの時代、この花がもてはやされたといいますね。ジャガイモは新大陸から入ってきた植物、やっとその時代に広まって一般的になってきたということでしょうかね。確かにかわいい花ですがハデじゃないけどな~。これをあのロココのデコラティヴなお帽子なんかに飾ってたかと思うとなんとなく滑稽。
マリーアントワネットは例のベルサイユ宮殿の中に、プチ・トリアノンという田舎風建物を作ってそこでヤギやら羊を飼って擬似田舎生活を楽しんだとか。先取りしてますね~。今の都会人の贅沢を。「シンメトリー」に徹底的にこだわる人工的の粋を極めたベルサイユ宮殿の中で、牧歌的な擬似風景を作って心の安らぎとして寂しさを紛らわすオーストリイ産まれの女王。でも実はその牧歌的風景のほうがはるかに人工的で手間も銭もかかってる贅沢だったりして「フランス国庫を傾けた女王」としてギロチンにかけられたのはご存知の通り。
でもねえ、所詮アントワネットの贅沢なんて知れていて、おフランスの国庫を傾けたのは先代、先々代のルイ達がやった征服戦争なんだけどね。この世で一番金がかかって何も生産しないのが戦争。だから戦争は大嫌い。まだロココ帽子にジャガイモの花を飾る女の愚かさのほうがよほどマシ。
見れば境の栗の木に花がついています。ふさふさの穂のような花。風で花粉が運ばれる風媒花なので、近所に栗の木がないと実をつけません。ちょっと離れたところに別の栗の木があるので、それの花粉のおかげでしょうか少しは実をつけてくれます。近くにもう一本植えたほうがいいかな。
ふと見たら隣の畑でおじさんがきゅうりのネット張り中。おじさんと話しをしていたら、烏骨鶏や薩摩鶏の赤笹や合鴨をたくさん飼ってらっしゃるとのことでした。合鴨は田んぼに放して合鴨農法を実践してらっしゃるとの事。そうなんだよな。こうやってほんの隣のおじさんが、聞いてみれば凄いことをやってる、それが世の中ってもんだよな。誰に接するにも必要なのは敬意。見かけや肩書き先入観で決して判断するべからず。
畑の中で一番藪になったところに、白藤の木があります。他のシーズンのときはまったく忘れているのに花の咲く今時分に「あ、そうだったここに白藤があったんだった!」と思い知らされるのです。
それほど鮮烈に潤沢に、こぼれそうな白い花がほこっています。
藤はなよなよと弱弱しそうな外見とは裏腹のたいへん強い生命力を持っています。だってねえ、あのなよなよとした枝をそのまま地面に挿せばあっという間に根付いて蔓を伸ばし始めるんだから。支えになる木が必要でその木に絡み付いてないと自分が維持できないようなふりをしといて、挙句の果てには宿主の木をがんじがらめにして絞め殺す。木が枯れても外の藤はその枯れ木を支えにして花をつけ実を実らせほこっていく。
藤原鎌足を始祖とした藤原氏。決して藤原氏そのものは天皇になることなく外戚として寄生して400年もの平安時代を生き抜き栄えた華やかな一族ですが、この一族の氏に「藤」の名前がついているのはまことに日本語として正しいと思わされる、藤の生態なのでありました。
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